小形こず恵の染付瓶「朝顔」
博物館周りの遊歩道のプランターが茫々と荒れているのを見かねて誰かが植えた実生の朝顔。
21世紀の新しい博物学は、自然誌と現代アートの協演の形で地球環境破壊へと雪崩を打って崩れていく世界で希望の火をかきたてて行く最後の手段となるだろう。小形こず恵の染付瓶も野草めく朝顔も優劣つけがたく束の間の命を精一杯輝かせている。私にとっては、健気な生き物も、あらゆるアートも、身体性をもって束の間の命をときめかせる、個的なたまゆらの記録。
次号の「月のしずく」では、そのことにも少し触れようと思っているが、アートは、1号いくらの価値とは無縁の身体表現であること。その究極の姿が音楽であり舞踊であるだと考えてきた。
三輪山に登った折のブログで熱狂的なファンから意見されたが、神社や三輪山などの神体山の禁足地の意味を取り違えている。それは、私設美術館と化して拝観料をとり本来の魂の浄化の場という使命を忘れた寺院にも共通するが、これらから溢れ出る固有の目には見えない価値を否定する者では決してないが、本来それらのかけがえのない価値のようなものは、管理者から離れて受け取る側の自由に委ねるべきなのだ。
この健気な朝顔と小形さんの染付瓶にいささかでも優劣はあるだろうか。
アートもまた人類共有の財産であり、このやせ地の朝顔と等価以上のものではありえない。これに異論を唱えるものはおそらくあるまい。
私はアートが世界を救うと真剣に考えているが、それはこの思いあってこそ成り立つものなのだ。
朝ドラ「らんまん」で牧野役を令和の時代に演じた神木隆之介が訴えたかったものも、この一事なのだと思う。残された人生、私もいささか違ったきのこ目の視点で訴え続けて行きたいと思っている。