ナジムさんとの出会いと相まって我が国にとって冬の時代の到来にささやかな希望の灯をともしてくれたキルギス映画のご紹介。
中央アジアのキルギスは、明治以降の我が国の多くの村同様、出稼ぎ大国。産業とてなく国民の20%余りがロシア圏を中心に出稼ぎに行くことでかろうじて成り立っている。そんな青壮年が長期不在の国にはそんな国独特の社会問題が生じる。そのキルギスの抱える諸問題を告発ではなくじっと見据える映画を撮り続けてきた監督 アクタン・アリム・クバトが作った第4作目の映画が『父は憶えている』だ。
出稼ぎにいったまま長期に亙り行方不明になっていた父が見つかり息子が連れ帰るのだが、その父は記憶と言葉を失っていた。そんな父の帰還で小さな村にさざ波が走る。徐々にではあるが修復し始める家族との絆。しかし、何と言っても問題は村の権力者のもとへ再婚した息子世代にとっては母であり、父にとっては妻である女性だろう。その一人の女性の去就が静かに描かれていく。村を一歩出ればいたるところに放置された粗大ごみの山。記憶を失った父がそんなごみを朝から晩まで拾い集める姿が象徴する遊牧民国家の急速な定住化の上に成り立つ国家の近代化の歪み、国家の末端支配の道具として広まるイスラム教の問題、違法選挙の問題。その女はイスラムの導師ではなくモスクを管理する村の長老の意見を藁をもつかむ思いで聴き取り、男性中心のムスリム社会に例外的に許された女性の離婚の権利を救いとして記憶を失った夫のいる元の家へ帰る。それで問題は全く解決されたわけではないが、父の帰還を祝い集まった知り合いの輪にふいに現れた妻に全員が口を噤んでしまうが、やがてその妻が静かに歌い出す歌がこの映画の原題でもある『Esimde』(エシムデ)、キルギスの伝承歌のようだ。昔二人がはじめて出会った林に佇んでいた記憶を失った父が家から漏れ来るその歌を聞き、記憶をたどるような面持ちで空を見上げるシーンで映画は終わる。それぞれが八方塞がりの現実を抱えながらもかろうじてなおも希望の灯を祈るような静かな歌声が続き映画は終わる。
新しい年を迎えるために是非とも観てほしい映画であった。