社会福祉協議会が歳末に郵便受けに放り込んでくれたカレンダーの1月はやさしいお地蔵さんのキャプションつきのかさ地蔵の図柄(辰島一代作品)が配されていた。大地を蔵するごとしという地蔵は"きのこ"をつくる菌類そのものである。21世紀の人新世の時代のスーパースターとしてきのこの文化普及振興に努めてきた私達だが、事態は私たちの想像以上に不可逆的に進行して大地を蔵するごときさしものきのこたちも疲弊し始めている。40年前にはきのこ目を持たなくとも里山へはいるとまず目に飛び込んでくるのがきのこだった。それが今はどうだろう。四季を通じてきのこに出会うのは稀になりたまさか出会う時には群生することなど稀なきのこの大群生と相場は決まって来た。そして大群生ののちは二度と顔を現わすことはなくなる。
ゆるやかな菌糸ネットを作り版図をひろげ循環世界の潤滑を図るきのこだが、昨今のそれは断末魔の叫びに変わっている。大型菌類(きのこをつくる菌類のことの別称)がいつもと違った形できのこをつくるのは大ピンチに陥った菌類がそこでいきていけなくなったときに挙げる悲鳴に等しい。そこの大地で生きて行けなくなったのでさようならのきのこを掲げてそのことをいち早く知らせてくれているのだ。牧歌的なキノコ採りに私たちが興じているわずか半世紀にもみたない間に列島の最期まで生き延びる能力のあるはずの菌類が失調をきたし始めているのだ。NEO博物学の時代のきのこファンはそのことをもっと真剣に見つめ大衆にしめしていかなくてはならない。それが「月のしずく」50号からの使命となるだろう。法然は武家の台頭で人心が荒みきった鎌倉時代に凡夫たることの徹底自覚を訴え続けその自覚を持ちえた人に対極の救済の思想を専修念仏の易行として打ち出した。その真意を巡って諸派に分かれて行ったが、その目指すところは同じであった。日蓮でさえ法然の出現を彗星に模したほどであった。私はそれを「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」ではなく「ちょっと背伸び」として令和以降の現代人の徳目として訴えていきたい。脱神話化をもっと進めるがそれは新しい物語の創出のために。ここではアーテイストの役割が何よりも重要視されるというのが私の考えだ。政治経済以前の課題が「ちょっと背伸び」なのだ。なにかといえば「自分へのご褒美」をゆるしてしまう我々にはこの「ちょっと背伸び」は至難の技。それをたえず励ましていくのはアーティストをおいてない。それをこれから徐々に明らかにしていく。