act.42『キラキラ』
温かいミルクの匂い。フライパンで,ジューって溶かしたバターの匂い。おいらはくんと鼻を鳴らした。朝ごはんの匂いだ。おいらは、ぼんやりと目を開けた。格子の形に,光が差し込んでくる。小さな埃が、きらきらと舞っている。おいらの瞳は、ゆっくりと、そのきらきらを追いかけた。きらきらは、覆いかぶさるように、おいらを覗き込んだ、黒いものに降り積もった。『気が付いたか?』おいらは、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。そこにいたのは、逆光を浴びたキジ猫大将だった。あれ?何で大将が、おいらの家にいるの?おいらは、びっくりして飛び起きようとした。そうしたら、あれ?おいらうまく立てないや。おいらは、ひっくり返りそうになって、ふらりと前足を折った。おいらの前足には、なんだか白いものがぐるぐると巻いてある。(キジ猫大将さん!)叫んだつもりだったけど、ニーという情けない声が,かすかに漏れただけだった。『鳴かなくてもいい。もう大丈夫だ。』大将の言葉に、おいらはいっぺんに、みんな思い出した。襲ってきた黄色猫と灰色猫のこと、トラ猫のこと。おいらは、頭をぐるりと回して、トラ猫の姿を探した。どこにもいない。(トラ猫は、トラ猫さんはどこへ行ったの?)おいらのか細い声に、大将は目を細めた。『トラ公は無事だ。少し怪我はしたが、たいしたことはない。心配するな。』大将の言葉に、おいらは昨夜見た赤い血を思い出した。やっぱりトラ猫は怪我をしたんだ。おいらが守らなきゃ。おいらはもう一度、ふらふらと立ち上がった。『おい。待て。』大将が、おいらの首根っこを押さえようとする。離して!離して!おいら行かなきゃ!おいらがジタジタしていると、パタパタと足音が近づいて来た。スラリと部屋を閉め切っていた格子の戸が開かれた。『ちびっ!やめなさいっ!』女の子の声が聞こえた。誰?桃・・・?おいらはふわりと、抱き上げられていた。長い髪がさらさらと、おいらをくすぐった。『ちびっ!いじめちゃ駄目でしょ!』あんまり大きな声がしたので、おいらは思わず耳を伏せた。腕の隙間から見下ろすと、キジ猫大将まで耳を伏せている。『よしよし、怖かったねえ。もう大丈夫でチュよ~。』おいらを抱き上げたのは、桃より大きい女の子だった。女の子は、おいらの鼻の頭に、本当にチュってしたので、おいらむずむずくしょんってなった。『さつきぃ。早くしなさ~い!遅刻するわよぉ!』大人の女の人の声が聞こえてきたけど、あれはママじゃない。おいらは、初めて、ここがおいらの家じゃないことに気が付いた。『ちぃちゃん?いいこと。喧嘩は駄目だよ!』女の子は、メッと大将をにらむと、静かにおいらを、ふかふかの座布団の上に下ろしてくれた。それから、今度は大将を抱き上げると、おいらにしたみたいに、鼻の頭にチュっとしてから、『いってきま~す。』と、パタパタと去っていった。ちび?ちぃちゃん???ここはどこ?おいらは、なんだか頭がぐるぐるした。『ア~。ここは、俺の家だ。』大将が、なんだか別のほうを向いて言った。それから大将は、ぼーっとしているおいらに、辛抱強く説明してくれた。トラ猫は、怪我はしたけど、無事であること。大将の家に来ることを、トラ猫が嫌がったので、おいらだけ連れてきたこと。大将の家の人が、おいらの傷を手当てしてくれたこと。トラ猫は、近所の神社の床下で休んでいること。『お前が目を覚ましたからな、これからトラ公を連れてきてやる。』大将はそういって、こそばゆそうに、鼻を掻いた。もしかして、大将がおいらたちを助けてくれたのかな?でも、でも・・・トラ猫と大将は、敵同士だったんじゃないの?おいらが気が付いたとき、大将の姿はもうなかった。おいら夢を見てたんじゃないよね?おいらはいつの間にか、知らない女の人のまあるいひざの上に抱かれていて、何か口の中に細いものが差し込まれていた。おいら嫌々って、首を振ろうとしたら、甘くてあったかいものが流れてきた。あ・・・ミルクだ。おいらは夢中になって、ぴちゃぴちゃと舐めた。『よしよし・・・もう大丈夫だね。』おいらはぽんぽんと、あかんぼみたいに、あやされてもう一度目を閉じた。ママはどうしているかな?ママ猫探しに夢中になって、おいら人間のママのこと忘れていた。おいらが、おうちを抜け出しちゃったこと、もうばれてるよね。心配してるかなあ。つぶったまぶたの裏に、ママの姿が浮かんだ。それから、ママが、トラ猫になって、終いには、しましまのメス猫になったりした。きらきらちらちら光が降っていた。