63回目の長崎原爆記念日
今日は63回目の長崎原爆記念日です。 1945年8月9日、午前11時2分、米軍爆撃機から投下された1発の原子爆弾が地上500メートルで炸裂しました。猛烈な熱線や爆風、大量の放射線。7万4千人の生命が奪われ7万5千人の方々が深い傷を負い、廃墟となった大地も、川も、亡骸で埋まりました。平和公園の丘に建つ納骨堂には、9千もの名も知れない遺骨が、今なお、ひっそりと眠っています。 (長崎平和宣言より抜粋)まいママの父は当時16歳・・学徒動員の兵器工場で被爆し、当時17歳だった母もまた学徒動員で防空壕を掘る作業中に被爆したそうです。あの日から63年経った今もなお日差しがジリジリと照りつけ、セミの大合唱を聞くとあの日の地獄絵図が思い出されるそうです。爆心地から500メートルの地点にあった長崎市立山里小学校では原爆によって1,300人の児童と先生が一瞬に命を絶たれました。近くで保養を続けていた被爆医師・永井隆(ながいたかし)博士は、あの子らの霊を慰め平和への足がかりにしようと、生き残った児童たちの原爆体験記「原子雲の下に生きて」の出版を援助、その印税で「あの子らの碑」を校庭の片隅に建立しました。さらに、博士自ら「あの子」を作詞し、長崎市議会事務局長の木野普見雄(きのふみお)さんに作曲を頼み、昭和24年11月3日に行われた碑の除幕式で、山里小学校児童の歌で披露されました。以来、「あの子らの碑」には千羽鶴が絶えることがなく、歌の「あの子」も、碑の除幕式のあった11月3日前後に毎年碑の前で開く平和祈念式などで、今日まで歌い継いでいます。(歌で巡る長崎より抜粋)「あの子」(昭和24年=1949、永井 隆・作詞、木野普見雄・作曲、山里小学校児童・歌)1、壁に残った落書きの 幼い文字のあの子の名呼んでひそかに耳すます ああ、あの子が生きていたならば2、運動会のスピーカー 聞こえる部屋に出してみるテープ切ったるユニホーム ああ、あの子が生きていたならば 3、ついに帰らぬおもかげと 知ってはいても夕焼けの門に出てみる葉鶏頭 ああ、あの子が生きていたならばあの惨劇は長崎で最後にして欲しい・・犠牲になった多くの方々への鎮魂の祈りと世界中の人々が手を繋ぎ平和への祈りをささげたいと思います。朝の光を浴びて posted by (C)まいママ