カテゴリ:政治
人々が本を読まなくなるディストピアのお話です。
なぜ人は本を読まなくなってしまうのか? それを考えるためには、 そもそも人間は、いつどうして本を読むようになったのか。 を考えなくてはなりません。 人間が本を読むようになったのは、 それほど昔のことではありません。わりと最近のことです。 すくなくとも中世まで、 ほとんどの人々は本を読んでいませんでした。 (そもそも字も読めませんでした) 本を読んでいたのは、一部の知識階級だけです。 一般の人々が本を読むようになったのは、 おおむね近代以降でしょうし、 日本でいえば、近世以降だろうと思います。 なぜ、この時期に、 人々は本を読みはじめたのでしょうか? ◇ もっとも象徴的なのは、 ヨーロッパでマルティン・ルターが登場したことです。 それまで聖書を読んでいたのは教会の聖職者だけで、 一般の信者は聖書を読むことが出来ませんでした。 聖職者たちは、 聖書のみならず、あらゆる書物の知識を独占し、 教義にとって都合の悪い書物は、 人々の目に触れないように隠していましたし、 焚書もおこなっていました。 そして、そのことが、 無知蒙昧な社会を作り出し、 教会権力を腐敗させ、硬直化させ、弱体化させました。 マルティン・ルターは、 そうした状況を打ち破るために、 一般の信者にも聖書を読ませました。 すでにグーテンベルクの印刷技術が普及していました。 いわばプロテスタントとは、 みずから聖書を読む人たちのことです。 その結果、聖職者や教会は無用となりました。 … 人々が本を読みはじめる動機があったとすれば、 権力が腐敗し、弱体化し、 従来の常識が信じられなくなったからだと思います。 ◇ さらに多くの人が本を読むようになったのは、 国民国家の時代です。 「国語」の制定(言文一致)や、 「録音・録画技術」の発明によって、 新聞、小説、レコード、ラジオ、映画が普及し、 国民文化が共有され、国民社会が形成されました。 こうした国民社会は、 テレビが普及したことによって完成に至りました。 しかし、 いまや国民文化の発展も頭打ちとなり、 国民社会そのものが衰退しはじめる状況のなかで、 小説も、音楽も、映画も、そしてテレビさえも、 かつてのような統合力と影響力を失っています。 現在の人々が本を読まなくなったのは、 たんにテレビのせいだけではありません。 (そもそも若い世代はテレビさえ見ていません) 国民文化そのものが衰退しているからです。 ◇ テレビのような映像文化が、 かつての本と同じような力をもつためには、 それらが多チャンネル化され、 さらにアーカイヴ化される必要があります。 すくない選択肢のテレビをリアタイで見ている限り、 人々は思考停止状態で身を委ねるしかないし、 作り手側もまた、 視聴率の稼げる安易な番組しか作ろうとしません。 しかし、 映像メディアそのものが多様化し、 それらにいつでもアクセスできるアーカイヴ化が進むと、 人々は、より能動的・選択的に映像を見はじめます。 じっくりと時間をかけて、くりかえし鑑賞し、 さらに他作品との比較をしながら味わいはじめます。 そのとき、 テレビのような映像作品も、 かつての書物と同じような啓蒙力を発揮するでしょう。 もちろん、 大多数の人たちは、 なかなか常識を疑おうとしませんから、 書物の時代の大衆の啓蒙に限界があったように、 映像メディア時代の啓蒙にも限界はあります。 それは、いつの時代も変わりません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021.06.22 05:58:11
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