テーマ:好きなクラシック(2326)
カテゴリ:音楽・映画・アート
NHK「玉木宏の音楽サスペンス紀行」。
《引き裂かれたベートーヴェンその真実》を見ました。 もともとはBSの番組ですが、12/30に総合でも放送されていた。 ベートーヴェンの《神話解体》がテーマ。 本人が自覚してるかは知らないけど、 玉木宏も「ベト7人気」の立役者の一人だから、 こういうところのNHKの人選は抜かりない。 … 去年は、 映画「CODA」やドラマ「silent」で、 ろう者や中途失聴者のことが取り上げられましたが、 ベートーベンも、まさに中途失聴者です。 番組では、 彼がコミュニケーションに用いた「会話帳」に焦点が当てられました。 そして、この「会話帳」が神話形成の土台になっている。 ◇ わたしが思うに、 ベートーベンの神話形成には3つの側面があります。 1.ドイツナショナリズム 番組ではこの点にはほとんど触れなかったけど、 実際には、この要因がいちばん大きいはずです。 ドイツは長いあいだ、 ヨーロッパの後進国として劣等感にさいなまれた。 シューマンからワーグナー、 やがてフルトヴェングラーやヒトラーに至るまで、 その文化的な後進性を乗り越えるうえで、 ベートーヴェンはずっと象徴的な存在だったと思う。 2.個人的な崇拝 これはアントン・シンドラーのことです。 すなわち、会話帳の改竄と、 それにもとづいて捏造された伝記の出版。 いつの時代にも神話を作りたがる人はいる。 「はっぴいえんど史観」も然り(笑)。 過度に心酔するあまり、 事実を捏造してでも神話を広めようとする。 とくにシンドラーの場合は、 シューマンなどのロマン派による再評価に触発されて、 その機運に乗っかった面も多分にあったはず。 逆にいえば、 当時のドイツの文化的ナショナリズムのほうが、 捏造された神話を積極的に欲してしまったのです。 シンドラーは、 「ベートーヴェンが『ファウスト』を題材に作品を構想してる」 みたいな嘘も吐いたらしいけど、 そういう発想こそがドイツロマン派の理念に呼応しています。 さらにシンドラーは、 「運命」だの「テンペスト」だの、 もっともらしい表題まで考案したらしいのだけど、 実際のところ、これらの表題がなければ、 楽曲がいまほど有名になることはなかったでしょう。 シンドラーが、 ベト7の2楽章のアレグレットを、 アダージョに改竄した気持ちもなんとなく分かる。 わたし自身、あれは荘重な葬送行進曲だと思ってたし、 現在でも遅いテンポで演奏する指揮者はいるはず。 3.東西のイデオロギー対立 戦後のドイツが東西に分断されたことで、 ベートーヴェンの虚像と神話も、 それぞれのイデオロギー的な解釈によって、 まったくちがう様相を見せていった。 番組では、その点を大きく取り上げていました。 スパイが暗躍して、 会話帳の奪い合いまで起こっていたのですね。 ◇ しかし、いまや、 ベートーヴェンの神話は解体されつつあります。 もともとシンドラーによる伝記は、 アレグザンダー・ウィーロック・セイヤーなどによって、 当初から内容が疑問視されていたけれど、 冷戦期に西側の《情報化》が進展すると、 東側も神話を助長するだけでは対抗できなくなり、 むしろ積極的な《神話解体》で研究をリードしようとした。 そして、ついに1977年、 東側の研究者が、 シンドラーによる会話帳の改竄を完全に暴き、 楽譜の校訂においても、 東側の研究がリードしていった、とのこと。 ただし、冷戦終結によって頓挫してしまいます。 ◇ ベートーヴェンの神話は需要が減じています。 かつては後進国だったドイツですが、 いまやすっかりヨーロッパの盟主になったわけで、 神話によってナショナリズムを喚起する必要がなくなった… って事情もあると思います。 これは、日本についても言える。 同じ後進国として、 ドイツのナショナリズムに同調する必要がなくなった。 そもそも、戦後のドイツも日本も、 ナショナリズムの称揚を国際的に許されていなかったかもしれませんが。 かくして日本では、 「のだめ」の影響でベト7が人気を獲得し、 ドイツ本国でも、 「笑うベートーヴェン像」が作られるなど、 従来的ないかつい虚像のイメージがだいぶ変わってきた。 ◇ ところで、 今回の《神話解体》の極めつきは、 じつは第9の「歓喜の歌」って「酒宴の歌」だったかも… という仮説です(笑)。 そういえば、 ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」も、 もともとは酒を酌み交わして歌う合唱曲だったのよね。 … あらためて「歓喜の歌」の内容は、こうです。 歓喜よ、 美しい神々の火花よ 楽園からの乙女よ、 我々は感激して、 あなたの天上の楽園に足を踏み入れる。 あなたの魔力は 世界が厳しく分け隔てるものを 再び結びつけ、 すべての人々は あなたの優しい翼のもとで兄弟になる! (N響「第9」演奏会2022の字幕より) これがもし「酒宴の歌」だとするのなら、 ≫ 楽園酒場に足を踏み入れたら、 ≫ アルコールの魔力でいちゃりばちょーでー! みたいに意訳できるかも。 ◇ さらに、 番組でも紹介されていましたが、 ベートーヴェンには「ポンス(パンチ酒)の歌」ってのがあって、 その歌詞も、ちょっと「歓喜の歌」に似ているのです。 いったい誰だ? パンチ酒が熱き手から手へと仲間を回っているというのに、 喜びと楽しさを感じない奴は誰だ? そんな奴はさっさと這って消え去れ! (「ポンス(パンチ酒)の歌」Punschlied, WoO. 111) 「歓喜の歌」にも似たような部分がありますよね。 一人の友を真の友とするという幸運に恵まれた者、 優しい妻を持つことができた者は、ともに喜びの声を上げよ。 ただ一人でもこの世で友と呼べる人のいる者も。 しかし、それができなかった者は、 涙とともにこの集いから去るのだ! つまり、 ≫ 恋愛も結婚もできず、 ≫ 友達もいないようなヤツはすっこんでろ! みたいな内容です。 ◇ 世間では、 この「歓喜」こそが第9の結論のように誤解されてますが、 実際は、そうじゃありません。 いったん「歓喜」が高らかに歌われたあと、 急にガラッと雰囲気が変わって、 荘重かつ不穏な感じで「抱擁」が歌われます。 そして最後に「歓喜」と「抱擁」が融合して結論に至る。 その弁証法的な構造の意味合いが、 あまり理解されていないんじゃないか、って気がする。 わたしが思うに、 じつは「歓喜」には排他的なところがあって、 それを弁証法的に乗り越える必要があったんじゃないかしら? ちなみに、 「歓喜」の部分は同胞の視点で歌われますが、 「抱擁」の部分は神の視点で歌われます。 百万の人々よ、わが抱擁を受けよ 全世界に、この口づけを 兄弟たちよ、星空の彼方に愛する父は必ずや住みたもう 百万の人々よ、ひざまずいているか 世界よ、創造主の存在を感ずるのか 彼を天上に求めよ、星空の彼方に創造主は必ずや住みたもう 実際、友達のいない人を排除したまま、 社交的な人間だけで歓喜の結論に至るってどうなの? たしかに「隣人愛」も大事だけれど、 孤独であるがゆえの「神の愛」だって必要でしょ。 だからこそ、 「歓喜」と「抱擁」を止揚したところに、 最終的な結論が置かれているのだと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.01.08 17:05:36
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