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まいかのあーだこーだ

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2023.03.28
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カテゴリ:NHK大河ドラマ
今年の大河「どうする家康」は、
だいぶアンチが多いらしいのだけど、
わたしは、かなり面白いと思って見てる。

裏切りや欺きが横行して、
敵と味方がはげしく入れ替わる戦国の世を、
コンフィデンスマン的な発想でドラマティックに描くところに、
古沢良太の真骨頂があるのでしょうね。

大胆な虚実をまじえた構想力が前面に出ています。



なまじ歴史を知っているアンチにとって、
自由に構想されたフィクションは目障りかもしれないけど、
むしろ大河ドラマにこそ自由なフィクションは必要です。

NHK大河の時代考証は、
「分かっていることは忠実に」
「分からないことは可能なかぎり自由に」

というのが原則だと思う。

いちばん良くないのは、
根拠のない既存の解釈を追認することです。
固定観念にもとづくイメージは、
誤まった歴史観を助長しかねないし、
のみならず、歴史研究の妨げにもなってしまう。

それを避けるためにも、
史実が完全に明らかでない部分については、
過去の解釈を積極的に変えていったほうがいい。
凝り固まった歴史イメージを振り落とすために、
なるべく自由な解釈に開いておくほうがいい。

それこそがNHK大河の役割ともいえます。
民放などの時代劇は、既存の安易なイメージに寄りがちだから。



歴史小説や時代劇を愛好する素人ほど、
新しい自由な発想に対しては否定的になるものですね。
実際、アンチの多い大河ドラマでは、
時代考証への批判が、なぜか一般の視聴者から出てくる。

だけど、
NHKの考証担当者よりも詳しい一般視聴者なんて、
そうそういるわけがないのよね。
ほとんどの場合は、たんなる半可通の素人が、
過去の時代劇や歴史小説を「史実」と勘違いしてるだけ。
そういう馬鹿な批判には取り合う必要がありません。

今回の「どうする家康」への批判を見てても、
ギャーギャー騒いでるのは半可通の素人ばかり。
ほんとうの専門家からの批判はほとんど見られない。





古沢良太は、
瀬名の奪還エピソードについても、
椿姫=お田鶴のエピソードについても、
おそらく虚実をまじえて物語を構成したのでしょうが、
それだけに非常にドラマティックだった。

お田鶴が夫の裏切りを密告したという部分などは、
まったくの想像なのだろうけど、

実際の文献でも、
夫は家康と内通し、妻は家康と戦ったとされていて、
結果として夫婦の立場が違ったのは間違いないし、
であれば、妻の「密告」という仮説にも整合性はあります。



大筋でいうと、
序盤では「今川家の敗北」を描いた形ですね。
公家の文化にかぶれた今川家は、
弱肉強食の戦国の世に適応しきれなかった。

Wikipediaによれば、
「戦乱を避けた公家(冷泉為和ら)が駿府に下向したこと」が、
今川家に円熟した公家風文化をもたらしたらしいのですが、
それがかえって裏目になってしまった。

野村萬斎が演じる義元は、いかにも雅な公家風だったし、
蹴鞠しかできない氏真も、戦国大名としては無能だった。
お田鶴も、今川家の雅な文化を愛するあまり、
戦国の世に適応していく者たちを恨まずにいられなかった。

逆に、瀬名や元康は、
苦しみながらも戦国の世にかろうじて適応しえたってこと。
そのことに説得性を与える物語として、
序盤の人間ドラマが構想されていたと思います。

◆ただし、椿姫と氏真の人物像については、古沢脚本の難点も感じました。というのも、いったん悪役的な印象をミスリードしておいて、後になって初出しの回想シーンでそれを修正していたからです。彼らが「椿」や「蹴鞠」を愛する平和主義者だという話は、視聴者にとっては初めて知る情報だったから、これは伏線の回収というよりも、いわば後出しジャンケンですね。コンフィデンスマン的な《どんでん返し》ならともかく、あえて大河でこういう手法をとる意味は乏しいと思う。


氏真は無能ではなかった!
(クリックすると「YouTube 歴史探偵」が見れます)





もうひとつ、
序盤の内容で興味深かったのは、一向宗の描写です。

一般に、
戦国仏教は「来世志向」だと思われてるけど、
ドラマではむしろ「現世志向」のように描かれてました。

いわく「現世の罪は現世かぎり」。
この世の罪は来世で帳消しにされる、と。
信徒たちは、人生を思いきり楽しんでる感じでした。

寺内町には、
豊富な生産物の取引や分配があり、
自由な恋愛があり、戦はなく、
歌や踊りなどのエンタメもある。
ぶっちゃけ、とても世俗的なのですね。

NHKプラスでは、
英雄たちの選択「三河一向一揆の衝撃」が再配信されてましたが、
そこでも磯田道史らが、
「中世の寺院は大学だった、土倉は銀行だった」
「タックスヘイブンだから金持ちが集まった」
と話してました。



ヨーロッパにせよ、日本にせよ、
中世は、宗教的蒙昧が支配してしまった時代ですが、

日本の場合は、
「忠義のために死ね」という武士の信念のほうが、
仏教よりも、はるかにカルト宗教的であって、
それにくらべれば、
むしろ現世主義的な仏教のほうが、
世俗的な近代性を先取りしていたかもしれない。

そもそも、本来の仏教は、
信仰というより哲学に近いもので、
その根本にあるのは「空」の世界観だから、
キリスト教やイスラム教みたいに、
来世なんぞを前提に考えるはずがないのよね。

そうした意味でも、
戦国仏教が、宗教的な力じゃなく、
むしろ世俗的な力によってこそ民衆の支持を集めた、
という解釈は、意外なくらい説得的だと思う。





古沢良太が、かなり自由な構想をもって、
大胆に物語を作ってるのは間違いないけど、
同時に、時代劇の場合は、
なかなか史実どおりには出来ない部分もある。

その最たるものが、古語です。

前作「鎌倉殿の13人」でも、
現代語と侍風の言い回しが混在してましたが、
現代語が古語でないのはもちろん、
じつは侍風の言い回しでさえ、ほんとうの古語ではない。

能や歌舞伎でさえ理解できないのだから、
当時の話し言葉や書き言葉を正確に再現してしまったら、
一般の視聴者には、まったく理解ができません。

なので、時代劇で話される言葉は、
それっぽく作った「時代劇言葉」でしかなく、
ほんとうの古語ではない。

それを勘違いして、
「大河ドラマでは正確な古語を話すべき」
などと思い込む視聴者は後を絶たないのだけど、
それもまた、馬鹿な批判の類です。



これと同じことは、
現代劇の方言についても言える。

北川悦吏子の「夕暮れに手をつなぐ」では、
広瀬すずの九州方言にネットの批判が殺到していたけど、
ドラマで使われる方言が正確である必要はないし、
もし、青森や沖縄などの方言を正確に再現したら、
ほとんどの視聴者には理解できなくなります。

そもそも、
古語にしても、方言にしても、
どこかに「正しい言語」なるものが存在するわけではなく、
時代ごとのグラデーションがあり、
地域ごとのバリエーションがあるだけなので、
せいぜい、それっぽくすることしか出来ない。

言語に対して無知な人間ほど、
「正しい言語を使え」などと主張するのですが、
それこそが馬鹿な批判のたぐいであって、
まともに取り合うべきものではありません。

所作などの細かい振る舞いについても同じですが、
すべてを正確に再現していたら、ドラマとして成立しないし、
どこにも「正しい言語」が存在しないのと同様に、
確定的に「正しい所作」が存在するわけでもない。
言語にせよ、所作にせよ、
さまざまな可能性を排除しないことのほうが重要です。





…所作といえば、
元康と瀬名のキスシーン(寸止め)には驚きました。

日本で「接吻」という翻訳語が生まれたのは明治だし、
恋人や夫婦がキスをするようになったのも、
おそらくハリウッド映画の影響だろうから、
日本人のキスは、わりと最近のことだと思ってました。

しかし、じつは日本にも、
室町時代から性的な行為としての「口吸い」があり、
江戸時代の春画にもキスシーンは描かれてるらしい。

いまだに違和感はありますが、
今後は時代劇でもキスシーンが普通になるのかも。




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最終更新日  2024.06.17 19:28:04


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