カテゴリ:NHK大河ドラマ
今年の大河「どうする家康」は、
だいぶアンチが多いらしいのだけど、 わたしは、かなり面白いと思って見てる。 裏切りや欺きが横行して、 敵と味方がはげしく入れ替わる戦国の世を、 コンフィデンスマン的な発想でドラマティックに描くところに、 古沢良太の真骨頂があるのでしょうね。 大胆な虚実をまじえた構想力が前面に出ています。 ◇ なまじ歴史を知っているアンチにとって、 自由に構想されたフィクションは目障りかもしれないけど、 むしろ大河ドラマにこそ自由なフィクションは必要です。 NHK大河の時代考証は、 「分かっていることは忠実に」 「分からないことは可能なかぎり自由に」 というのが原則だと思う。 いちばん良くないのは、 根拠のない既存の解釈を追認することです。 固定観念にもとづくイメージは、 誤まった歴史観を助長しかねないし、 のみならず、歴史研究の妨げにもなってしまう。 それを避けるためにも、 史実が完全に明らかでない部分については、 過去の解釈を積極的に変えていったほうがいい。 凝り固まった歴史イメージを振り落とすために、 なるべく自由な解釈に開いておくほうがいい。 それこそがNHK大河の役割ともいえます。 民放などの時代劇は、既存の安易なイメージに寄りがちだから。 ◇ 歴史小説や時代劇を愛好する素人ほど、 新しい自由な発想に対しては否定的になるものですね。 実際、アンチの多い大河ドラマでは、 時代考証への批判が、なぜか一般の視聴者から出てくる。 だけど、 NHKの考証担当者よりも詳しい一般視聴者なんて、 そうそういるわけがないのよね。 ほとんどの場合は、たんなる半可通の素人が、 過去の時代劇や歴史小説を「史実」と勘違いしてるだけ。 そういう馬鹿な批判には取り合う必要がありません。 今回の「どうする家康」への批判を見てても、 ギャーギャー騒いでるのは半可通の素人ばかり。 ほんとうの専門家からの批判はほとんど見られない。 ◇ ◇ 古沢良太は、 瀬名の奪還エピソードについても、 椿姫=お田鶴のエピソードについても、 おそらく虚実をまじえて物語を構成したのでしょうが、 それだけに非常にドラマティックだった。 お田鶴が夫の裏切りを密告したという部分などは、 まったくの想像なのだろうけど、 実際の文献でも、 夫は家康と内通し、妻は家康と戦ったとされていて、 結果として夫婦の立場が違ったのは間違いないし、 であれば、妻の「密告」という仮説にも整合性はあります。 ◇ 大筋でいうと、 序盤では「今川家の敗北」を描いた形ですね。 公家の文化にかぶれた今川家は、 弱肉強食の戦国の世に適応しきれなかった。 Wikipediaによれば、 「戦乱を避けた公家(冷泉為和ら)が駿府に下向したこと」が、 今川家に円熟した公家風文化をもたらしたらしいのですが、 それがかえって裏目になってしまった。 野村萬斎が演じる義元は、いかにも雅な公家風だったし、 蹴鞠しかできない氏真も、戦国大名としては無能だった。 お田鶴も、今川家の雅な文化を愛するあまり、 戦国の世に適応していく者たちを恨まずにいられなかった。 逆に、瀬名や元康は、 苦しみながらも戦国の世にかろうじて適応しえたってこと。 そのことに説得性を与える物語として、 序盤の人間ドラマが構想されていたと思います。 ◆ただし、椿姫と氏真の人物像については、古沢脚本の難点も感じました。というのも、いったん悪役的な印象をミスリードしておいて、後になって初出しの回想シーンでそれを修正していたからです。彼らが「椿」や「蹴鞠」を愛する平和主義者だという話は、視聴者にとっては初めて知る情報だったから、これは伏線の回収というよりも、いわば後出しジャンケンですね。コンフィデンスマン的な《どんでん返し》ならともかく、あえて大河でこういう手法をとる意味は乏しいと思う。 (クリックすると「YouTube 歴史探偵」が見れます) ◇ もうひとつ、 序盤の内容で興味深かったのは、一向宗の描写です。 一般に、 戦国仏教は「来世志向」だと思われてるけど、 ドラマではむしろ「現世志向」のように描かれてました。 いわく「現世の罪は現世かぎり」。 この世の罪は来世で帳消しにされる、と。 信徒たちは、人生を思いきり楽しんでる感じでした。 寺内町には、 豊富な生産物の取引や分配があり、 自由な恋愛があり、戦はなく、 歌や踊りなどのエンタメもある。 ぶっちゃけ、とても世俗的なのですね。 NHKプラスでは、 英雄たちの選択「三河一向一揆の衝撃」が再配信されてましたが、 そこでも磯田道史らが、 「中世の寺院は大学だった、土倉は銀行だった」 「タックスヘイブンだから金持ちが集まった」 と話してました。 ◇ ヨーロッパにせよ、日本にせよ、 中世は、宗教的蒙昧が支配してしまった時代ですが、 日本の場合は、 「忠義のために死ね」という武士の信念のほうが、 仏教よりも、はるかにカルト宗教的であって、 それにくらべれば、 むしろ現世主義的な仏教のほうが、 世俗的な近代性を先取りしていたかもしれない。 そもそも、本来の仏教は、 信仰というより哲学に近いもので、 その根本にあるのは「空」の世界観だから、 キリスト教やイスラム教みたいに、 来世なんぞを前提に考えるはずがないのよね。 そうした意味でも、 戦国仏教が、宗教的な力じゃなく、 むしろ世俗的な力によってこそ民衆の支持を集めた、 という解釈は、意外なくらい説得的だと思う。 ◇ ◇ 古沢良太が、かなり自由な構想をもって、 大胆に物語を作ってるのは間違いないけど、 同時に、時代劇の場合は、 なかなか史実どおりには出来ない部分もある。 その最たるものが、古語です。 前作「鎌倉殿の13人」でも、 現代語と侍風の言い回しが混在してましたが、 現代語が古語でないのはもちろん、 じつは侍風の言い回しでさえ、ほんとうの古語ではない。 能や歌舞伎でさえ理解できないのだから、 当時の話し言葉や書き言葉を正確に再現してしまったら、 一般の視聴者には、まったく理解ができません。 なので、時代劇で話される言葉は、 それっぽく作った「時代劇言葉」でしかなく、 ほんとうの古語ではない。 それを勘違いして、 「大河ドラマでは正確な古語を話すべき」 などと思い込む視聴者は後を絶たないのだけど、 それもまた、馬鹿な批判の類です。 ◇ これと同じことは、 現代劇の方言についても言える。 北川悦吏子の「夕暮れに手をつなぐ」では、 広瀬すずの九州方言にネットの批判が殺到していたけど、 ドラマで使われる方言が正確である必要はないし、 もし、青森や沖縄などの方言を正確に再現したら、 ほとんどの視聴者には理解できなくなります。 そもそも、 古語にしても、方言にしても、 どこかに「正しい言語」なるものが存在するわけではなく、 時代ごとのグラデーションがあり、 地域ごとのバリエーションがあるだけなので、 せいぜい、それっぽくすることしか出来ない。 言語に対して無知な人間ほど、 「正しい言語を使え」などと主張するのですが、 それこそが馬鹿な批判のたぐいであって、 まともに取り合うべきものではありません。 所作などの細かい振る舞いについても同じですが、 すべてを正確に再現していたら、ドラマとして成立しないし、 どこにも「正しい言語」が存在しないのと同様に、 確定的に「正しい所作」が存在するわけでもない。 言語にせよ、所作にせよ、 さまざまな可能性を排除しないことのほうが重要です。 ◇ ◇ …所作といえば、 元康と瀬名のキスシーン(寸止め)には驚きました。 日本で「接吻」という翻訳語が生まれたのは明治だし、 恋人や夫婦がキスをするようになったのも、 おそらくハリウッド映画の影響だろうから、 日本人のキスは、わりと最近のことだと思ってました。 しかし、じつは日本にも、 室町時代から性的な行為としての「口吸い」があり、 江戸時代の春画にもキスシーンは描かれてるらしい。 いまだに違和感はありますが、 今後は時代劇でもキスシーンが普通になるのかも。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.06.17 19:28:04
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