GYAO!は3月でサービスを終了しましたが、
最後に「アイ・アム・ザ・ブルース」という映画を観ました。 ドキュメンタリーだけれど、 映像がとても美しく、 ブルースを育んだアメリカ南部の風土や、 ゆったりした時間の流れを体感できた佳作。 登場するミュージシャンは年寄りばかりなのに、 歌や演奏はほんとうに素晴らしく、 ブルース好きならいつまででも見てられる内容でした。 狭義のブルース形式の曲だけでなく、 ゴスペルも取り上げられていましたし、 カントリー風の曲や8ビートの曲が演奏されるのも興味深かった。 ちなみに、この映画は、 カナダ人によって制作されている。 同じくGYAOでは、 「ランブル~音楽界を揺るがしたインディアンたち」 というドキュメンタリー映画も配信されていて、 こちらは米国音楽史における先住民の貢献を探る内容でしたが、 やはりカナダ人による作品でした。 米国音楽に関するドキュメンタリーなのに、 そうした映画を作るのは、 なぜ米国人ではなく、カナダ人なのでしょう? わたしは、 CBCとNetflixのドラマ「アンという名の少女」が、 米国側の事情で打ち切りになったと思っているのですが、 それと同じ背景を感じてしまいます。 つまり、 北米大陸の人種問題の歴史に向き合ってるのは、 もっぱらカナダ人ばかりで、 アメリカには、いまだ人種間の分断があるということ。 プロテスタントの多いカナダと、 南部にラテン系カトリックの住民を抱える米国とでは、 政治的な姿勢も違うし、歴史的な差異もある。 被写体となる黒人や先住民も、 カナダの白人であればこそ心を開くのかもしれません。 ◇ もうひとつGYAOで観たのは、 「ゴーギャン~タヒチ、楽園への旅」という映画。 もともとゴーギャンやルソーの絵画は、 ファンタジックでピースフルな雰囲気があって好きだった。 その異国趣味は、 ドビュッシーやサティの音楽にも通じてると感じてました。 しかし、当然ながら、 そこには植民地での支配/被支配の関係があるわけで、 たんに優雅なコロニアル趣味では済まされない面もある。 パリにいながら異国を想像しただけのルソーと、 実際に植民地まで行ったゴーギャンを比べても、 その暴力性には、だいぶ違いがあるのかもしれません。 ◇ 映画では、 本国フランスでの理解が得られずに、 タヒチへ渡ってサバイバルな生活に挑みながら、 画家としての成功も、現地妻の愛情も失って、 ふたたび本国へ戻るゴーギャンを悲劇的に描いていました。 けれど、 ほんとうに目を向けるべきなのは、 宗主国の白人が、本国の妻子を捨て置き、 植民地のポリネシアで幼い少女を現地妻とし、 エキゾチックな視線を向けていくことの暴力性ですよね。 それをポスコロ的な視点で描いたら、 まったく別の映画になってしまう気がします。 山田五郎のYoutubeチャンネルによれば、 ゴーギャンの発想は、 のちの「フォークロアアート」の先取であるとのこと。 しかし、その背景には、 やっぱり植民地主義的な暴力性があるわけです。 ◇ カナダの白人と、 米国南部のラテン系の白人に差異があるのと同じく、 オランダ人の生真面目なプロテスタントだったゴッホに対して、 フランス人のゴーギャンは、 いわば罰当たりなカトリック信者だったわけで、 そこにはラテン気質の野獣的な奔放さがあった感じがします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.04.07 11:00:07
[アンという名の少女の感想・あらすじネタバレ。] カテゴリの最新記事
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