テーマ:政治について(20221)
カテゴリ:メディア問題。
宝塚で後輩叩きをしていた劇団員も、
元ジャニタレの被害者叩きをしていたジャニヲタも、 自分たちの行為が「正義」だと信じている点で似ています。 これはたとえば、 子供を虐待する親や教師が、 自分の行為を「躾しつけ」だと信じているのにも似てるし、 後輩にシゴキをおこなう運動部員やサラリーマンが、 自分の行為を「指導」だと信じているのにも似ています。 ◇ これは一面では、 伝統的な縦社会の悪弊にも関係するけれど、 それだけではなく、 SNSのエコーチェンバーのように、 偏狭な「正義」が増幅しやすい現代的な環境も関係している。 本を読むこともなくなって、 テレビを見ることも少なくなって、 公共的な価値や多様な価値に触れる機会は減っているし、 一定以上の知性がなければ、 価値の相対性に気づくことが出来ず、 狭い世界の価値観だけに染まってしまい、 自分の信じている「正義」が妥当かどうかを疑うこともできない。 ◇ それどころか、 偏狭な「正義」が増幅した集団のなかでは、 それに疑いをもつ人間のほうが排除されてしまうし、 それを批判をする知性的な人間のほうが叩かれてしまう。 これは戦時中の状況に似ています。 多くの日本人が、 軍国主義教育や大本営発表を信じていた時代では、 それを批判する人間のほうが「非国民」だと叩かれた。 人々は、天皇の玉音放送を聴くまで、 軍国教育や大本営発表を「正義」と信じて疑わなかったし、 敗戦してから気づいても後の祭りなのだけど、 敗戦しないかぎりは、その「正義」が間違いとは考えない。 宝塚の場合も、ジャニーズの場合も、 死者が出るまでは、その「正義」を疑おうとはしないし、 場合によっては、死者が出てもなお、 いちど信じてしまった正義を捨てることができないのでしょう。 ◇ とくに若い世代で、 こうした偏った価値観が増幅しやすくなっています。 これは危険な傾向だというべきです。 国民が公共的な価値や相対的な価値に触れる機会を、 従来の国家教育とは別の形で作っていかなければなりませんし、 官民が共同して、 偏狭な「正義」を疑えるだけの知性を鍛えていかねばならない。 ◇ 宝塚で後輩叩きをしていた団員は、 いまや「社会悪」として世間から叩かれる立場になっています。 それまで自分たちの信じていた正義が、 外の世界からは「悪」だと見なされるようになってしまった。 それは、ちょうど、 "敗戦後の軍国主義者"に近い心境だろうと思います。 自分たちの拠り所としてきた基盤が完全に否定された状態ですね。 国が違えば正義は変わるし、時代が変われば正義も変わる。 外側の正義は内側の正義とは違うし、未来の正義は現在の正義とは違う。 小さな集団のなかで視野が狭まると、 そうした価値観の多様性や相対性を想像できなくなり、 偏った正義感で身を染めてしまうことになりますが、 それは結果的に自分自身を滅ぼすことになる。 そうならないための最低限の視野と知性は、 現代社会に生きる誰にとっても必要なことだと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.06.17 20:39:46
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