カテゴリ:政治
NHKの100分de名著トーマス・マン「魔の山」。
全4回を見終わっても、いまいち要領を得なかった。 ◇ 講師役を担当した小黒康正は、 《山上》の療養所と《下界》が象徴するものについて、 おおむね次のような整理をしてました。 《山上》東方の快楽主義的な退廃。死への耽溺。 《下界》西欧の啓蒙主義的な理性。生への奉仕。 しかし、 この整理の仕方はかなり分かりにくい。 …というより、 とくに革命主義者のナフタが登場して以降、 上のような対比は一貫性をなくして矛盾を来たします。 なぜなら、 《下界》でおこなわれてるのは戦争なのだから、 それは「生への奉仕」ではなく「死への奉仕」だし、 しかも、ドイツは、 英・伊・仏などの西欧諸国と戦ってるわけだから、 ドイツが属してるのは、下界でも「東側」なのです。 ◇ そう考えると、 すくなくともナフタの登場以降は、 次のように整理するほうが妥当なのだと思う。 《山上》東方的革命の「観念論」 《下界》東方的革命の「実践論」 そして、これはちょうど、 マルクスが「ドイツイデオロギー」で、 観念論から実践論に転換したのと同じじゃないかしら? つまり、 主人公ハンス・カストルプとヨーアヒムは、 ロシアの革命幻想(ショーシャ夫人)に魅了される段階から、 実践的な闘争主義(イエズス会士ナフタ)に駆り立てられる段階へ、 徐々に覚醒していく、ってことなのだと思う。 雪山で悟達のシーンで描かれているように、ある種の理念を獲得するだけではだめで、それをどう実践にもたらしていくのかを問うたのが第七章なのだ。単なる理念は、あっという間に忘れ去られてしまう。 ◇ ただし、マルクスとは違って… トーマス・マン場合は、 執筆中に第一次大戦が終結してドイツが負けたので、 戦争という名の「革命論」は潰えてしまった。 作者もその失敗を認めざるを得なかった。 それは、つまり、 ナフタに象徴される実践革命の敗北を認めて、 イタリア人のセテムブリーニが象徴するような、 西欧市民社会の勝利を認める…ということです。 ◇ しかしながら、 トーマス・マンの意に反して、 現実のドイツは(それどころかイタリアまでも)、 革命の意志を捨てられずに、 さらにファシズムへ突き進んでいきます。 そして、その場合の「東方的革命」とは、 一党独裁体制による全体主義と言い換えられる。 その点では、ソ連もナチスドイツも同じなのだから。 実際、 ロシアの革命幻想を体現したはずのショーシャ夫人は、 資本家のオランダ人ペーペルコルンに包摂されてたのに、 そのペーペルコルン自身が自死を選んでしまいます。 その結果、ショーシャ夫人も下界へ降りていく。 つまり、これは、 資本主義にも未来がないことを意味してます。 資本主義に未来が見出せないのなら、 第一次大戦であれ、第二次大戦であれ、 やはりドイツは戦う以外になかったということでしょう。 ある見方からすれば『魔の山』の主題のひとつは「人間と文化にとって病気とは何か」ということだ。「病気」にかこつけて精神の彷徨を愉楽とするかのような気分になっていたハンスに突き付けられた現実とは、突如としてヨーロッパの生活者のすべてを覆った「戦争」という青天の霹靂だった。 ◇ なお、 ナフタは改宗ユダヤ人なので、 その意味でもマルクスと同じなのだけど、 イエズス会士という点でいえば、 レコンキスタのコンベルソみたいでもあるし、 現代の米国でいえばネオコンみたいでもある。 イエズス会にせよ、 レコンキスタのコンベルソにせよ、 現代の米国のネオコンにせよ、 欧米の強硬な保守主義を体現してるし、 実際には、マルクスも、 ロスチャイルド家の親戚で金持ちだったわけですが、 いまもなおユダヤ人の内実は、 いろんな矛盾に満ちてるってことかもしれません。
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最終更新日
2024.08.07 04:40:58
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