おとといの《100分de名著「魔の山」》の記事を書いたあとに、
ユダヤ人にかんして音楽惑星さんと意見交換しました。
Amazonのサービス変更の影響もあって、
音楽惑星さんのサイトは一時休止中とのことなので、
こちらにその内容を載せておきます。
赤字がわたし。青字が音楽惑星さんです。
前に音楽惑星さんは《ドナルド・トランプとボブ・ディラン》という記事で「ボブ・ディランがロックに転向したのはトロツキストだったから」みたいに書いてましたよね。
はいはい。
あのときニューポートフェスティバルにいたユダヤ系のミュージシャンは全員トロスキストだった…と(笑)。
全員がトロスキストだったと言えるか分かりませんが、たとえばピート・シーガーなんかはスターリン主義者だったわけです。そのことで、のちにネオコンから批判されるんですが。
だから、ピート・シーガーみたいな共産党系の左翼に反発したユダヤ人たちはトロツキストだった…と考えるのが分かりやすいと思ったんですよね。
とくにボブ・ディランは、先祖がトロツキーと同郷のウクライナ移民なんですね。
祖父母の代までトロツキーの故郷のオデッサに住むユダヤ人でした。現在はウクライナ領ですけど、当時はロシア帝国領ですね。
つまり、トロツキーも、ボブ・ディランも、それから大統領のゼレンスキーも「ウクライナのユダヤ人」という共通項で繋がってるわけです。
そうですね。
わたしは、東洋経済オンラインの《ウクライナとガザの紛争が歴史上同根である理由》という記事 を読んで、ウクライナもパレスチナも結局はユダヤ人問題なんだ!…と気がついたわけ。現代のユダヤ人問題も、もともとはウクライナから始まってる。
それは、ロシアのポグロムってことですね。
うん。
ポグロムは、19世紀の前半に、それこそオデッサから始まったわけでしょ。現在のウクライナに住むユダヤ人が排斥の対象になった。そこから、東側のユダヤ人たちは西へ追いやられていくんだけど、第二次大戦のときに、こんどはナチスドイツから追い返されてしまった。というより、虐殺されたわけですが。
それでユダヤ人は行き場がなくなるんだけど、イギリスの二枚舌外交で「エルサレムに住んでいいよ」と言われてパレスチナに移り住んた。そうしたら、こんどはパレスチナ難民が発生してイスラム教徒と争うことになったわけです。
本来、ユダヤ人は2000年近くキリスト教徒と争ってきたんだけど、いまはキリスト教徒と結託してイスラム教徒と喧嘩してる。イギリスの二枚舌外交ってのは、はじめからそこまでを目論んでた可能性があります。
つまり、イスラム教徒と喧嘩させておけば、キリスト教世界のほうは平穏だと?
わたしは《CBCの「アンという名の少女」》の記事 を書いたときに「ラテン系の人たちは異民族と共存するのが平気だけど、北方のゲルマン人やアングロサクソンは潔癖だから異民族と共存できないんだ」と考えたんです。
カナダや米国の北部州で奴隷制が早く終ったのは、もともと黒人や先住民と距離を置いてて奴隷制にも依存してなかったからです。それに対して、ラテン系の人たちは、何千年も前から地中海で黒人やアラブ人の奴隷たちと共存してきたから、異民族と共存することに慣れてるんですね。だから、アメリカの南部州でも、それから南米でも、奴隷制への依存度が高くて、それをなかなか手放せない。
それはおそらくユダヤ人に対しても同じで、ラテン系の人たちはレコンキスタのときにも改宗ユダヤ人と一緒にアラブ人と戦ったりしてる。まあ、十字軍のときはユダヤ人を殺戮したけれど。
他方、スラブ系のロシア人とか、ドイツのゲルマン人とかは、潔癖すぎてユダヤ人との共存ができないんだろうと思う。
そういったら日本人も異民族との共存は苦手ですよね。日本人は島国に閉じこもってきたからかな。
実際には、オランダにユダヤ人がいた時期もあったし、イギリスにユダヤ人がいた時期もあります。その前にはチェコにもユダヤ人がたくさんいた。そういう時期は、国がとても繁栄するんですね。
経済力が高まるから。
そうです。ポルトガルやオランダやイギリスがヘゲモニー国家になったのは、ユダヤ人と共存していた時期なんだろうと思う。20世紀後半になると、こんどはニューヨークにユダヤ人が集まってきて、米国がヘゲモニーを握るわけですよね。
たしかに。
でも、その一方で、ユダヤ人との共存ってのは社会の歪みを生んでしまう。格差が拡大するし、伝統的な共同体が壊れてしまうから。ユダヤ人との共存には表の面もあるし裏の面もあるわけです。
ある意味では米国の南北問題もそこに起因するんでしょうね。スタインベックの『怒りの葡萄』の中にも「東部の資本家がオクラホマの農村を破壊してるんだ」という話が出てきます。東部の資本家というのは、おそらくニューヨークのユダヤ人でしょうからね。
イギリスの二枚舌外交というのは、ヨーロッパからユダヤ人を追い出しつつも、経済的な協力関係は維持する…というズルい発想だったんだと思う。イスラム教徒と戦争させつつ、欧米とユダヤ人社会は経済的な同盟関係を維持してるといえます。
米国は基本的にアングロサクソンの社会だけど、不思議なことにユダヤ人排斥は起こりませんでした。それは、ナチスドイツを「悪」とみなすハリウッドなどのメディア戦略の成果でもあるし、もちろんユダヤ人のロビー活動の成果でもあるし、ネオコンなんかは南部の福音派と結託して上手く振舞ってるわけですね。そうやってユダヤ人排斥が起こらないように立ち回ってる。
さすがに最近は、パレスチナ問題でイスラエルへの反感も大きくなってるけど。
ボブ・ディランも、表向きは南部の貧困層に寄り添うフリをしてるのね。
まあ「フリをしてる」と言ったら語弊があるかもしれないけど、ユダヤ人社会にはそういう二面性とか矛盾があるのでしょうね。アトランティックレコードのジョン・ウェクスラーなんかも、南部の文化に寄り添ったユダヤ人でした。
もともとマルクスだって、ロスチャイルド家の親戚で大金持ちでした。資本主義の権化みたいなユダヤ人もいれば、それと敵対して戦おうとするユダヤ人もいるってことかな。
だいたい左翼になるのはブルジョワの息子ですから(笑)。
おそらくユダヤ人は、資本主義のフロンティアを求めて、どんどん移動していくんだと思う。そして、そのたびに社会的な混乱がそこに生まれる。そういうことを繰り返すんですね。現在のウクライナとパレスチナの問題は、近代のユダヤ人による資本主義の、いちばん根っこの部分と先端の部分で起こってるわけです。
アラブ人やトルコ人だって、歴史的には地中海世界で異民族と共存してきた人たちですよね。オスマン帝国は多民族国家だったわけだし。
とくにアラブ人とユダヤ人って根っこは同一民族です。それが争うように強いられてる状況は、すごく不自然で人為的なんだろうと思う。
わたしの主張は、
いまいち正確性を欠いてる気もするので、
補足の意味と、個人的な備忘録のために、
以下、関連記事からの抜粋をいくつか載せておきます。
なお、
リベラル派の学者の文章もあれば、
極右政党のサイトの文章もありますので、悪しからず。
ウマイヤ朝は、人頭税を支払えば信仰の自由を認めてくれたので、ユダヤ人にとっては悪くない治世でした。
しかし、国土を奪われたキリスト教は、ムスリムの手から土地を取り戻そうとレコンキスタを展開。それにともなって、イベリア半島から徐々にユダヤ人が追い出されるようになりました。レコンキスタは1492年、スペインによって達成されます。ユダヤ人はスペインには留まれないことになりました。
スペインにおけるユダヤ人の人口は、レコンキスタの過程で、当然ながら減少し続けます。レコンキスタ完了目前の1478年、スペインでは、約20万人のユダヤ人が暮らしていましたが、そのうち10万人は隣国・ポルトガルに移り住みました。
1495年に即位したポルトガル王のマヌエル1世は、ユダヤ教徒に寛容でしたが、スペイン・カトリック両王の娘イサベルと結婚するにあたり、スペイン側からユダヤ人を追放するよう迫られます。
しかし、ユダヤ人が経済的にも文化的に非常に重要な役割を果たしていることを知っていたマヌエル1世は、何とかして彼らを国内に留めようとします。そこで彼は形式的に、1497年3月で全ユダヤ教徒がキリスト教徒になったことにしたのです。
この時に、“形式上”、キリスト教徒に改宗した人たちを、新キリスト教徒と呼びます。内心ではユダヤ教を信仰することも事実上黙認されたわけですが、それはいつ糾弾されるかも知れぬ生活を送るということでもありました。事実、その後、スペインやポルトガルでは苛烈な「異端審問」が行われるようになるのです。
そうした背景があったので、新キリスト教徒は常に信仰の自由が認められる地を探していました。1500年代初頭、彼らの中からアントウェルペン(現在のベルギーの都市)に貿易のために定住する人々が出てきます。彼らは、スペイン人やポルトガル人、さらにはスペインの迫害を逃れて、北アフリカ、トルコ、地中海の他の地域に住み着いた家族たちとの経済的絆を維持し続けました。そのネットワークが経済活動の大きな強みにもなりました。そしてもちろん、スペインとポルトガルの支配から逃れた人々は、再びユダヤ教に改宗していきました。
その後、アントウェルペンの新キリスト教徒は、隣国オランダのアムステルダムに定住するようになります。スペイン国王フェリペ2世が1585年に南ネーデルラント(現在のベルギー)を陥落させたからです。またもやスペインの支配から逃れなければならなかったのです。
オランダ人の多くは改革派教会(プロテスタント)に属していましたが、彼らにユダヤ人を迫害する気持ちはありませんでした。それは、ユダヤ人が富をもたらす存在だとしっていたからです。
17世紀になるとユダヤ人はオランダ共和国にさらに受け入れられます。1639年、公にユダヤ教を信仰することが許されるのです。アムステルダムには、ユダヤ人のためのシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)が建てられるほどでした。
セファルディムの中には、ハンブルクに住み着く人々もいました。ハンブルクはルター派の都市でありながらも、同時に宗教的に寛容で、セファルディムは市民権こそ取得できませんでしたが商業に従事することができました。そのため迫害を逃れて、ハンブルクで商業に従事する人々もいたのです。
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56942
ウィーン体制といわれる1815年以降の体制は、国民国家へと移行していく流れの中で締結された体制であった。その現れの1つが、1853年から始まるクリミア戦争であった。この戦争は、オスマン帝国の解体を意味する戦争であり、かつその領地をどの国が分け合うかという「ライオンの分け前」の戦いであった。
そこで大きな影響を受けたのが、マイノリティーの民族だった。帝国の崩壊は、マイノリティー民族への弾圧を生み出した。ロシアではユダヤ人に対するポグロム(ユダヤ人に対する集団暴力)が起こる。ポグロムを逃れたユダヤ人は、プロイセンやオーストリアなどに移住していったが、500万以上のユダヤ人が住んでいたロシア帝国、とりわけウクライナのユダヤ人社会の崩壊は、西欧社会に大きな社会的危機をもたらす。
この危機の中で、社会主義運動に参加するユダヤ人も大勢生まれた。トロツキー、ルクセンブルク、ジノヴィエフ、マルトフなどロシア革命で大活躍をする面々は、こうした流れを受けたものであった。ロシア革命の原動力の1つがロシア帝国のポグロムに対する抵抗であったともいえる。
一方、オーストリア帝国やドイツ帝国へ逃げのびたユダヤ人は、オーストリアで難民問題を引き起こす。ポグロムによる西欧へのユダヤ人の移動は、西欧人に反ユダヤ主義をもたらす。これがオーストリアのユダヤ人ヘルツルによるシオニスト会議(1897年)を生み出す。
https://toyokeizai.net/articles/-/713471
離散(ディアスポラ)後ユダヤ人が特に反乱を起こしたわけでもないのに、なぜ迫害されたのでしょう?
第一の理由は宗教です。ユダヤ人はユダヤ教を守り、離散したあとでも宗教指導者のもとでユダヤ教の戒律に従いました。多数派のキリスト教徒(当時はカソリック)から見ると明らかに異教徒ですし、キリストをゴルゴダの丘で磔の刑にしたのもユダヤ人だからです。
二番目の理由はユダヤ人の生業です。自分たちの土地を追われたユダヤ人が食べていくには、商業と金融業(金貸し)しかありませんでした。小さい時に紙芝居で見た「ベニスの商人」という話を覚えているでしょうか?イタリアのベニスの商人がシャイロックというユダヤ人からカネを借りたのですが、商売に失敗して返せなくなりました。シャイロックは返済の繰り延べを認めず、借用書にあるように商人のカラダの肉で払えと主張し裁判になったという話です。結果は大岡裁きのように、肉を切っても良いが、血は一滴も流してはならないという判決だったと思います。ここでは、金貸しのユダヤ人が明らかに憎悪の対象になるように憎々しげに描かれています。
三番目の理由は後ろ盾となる国を持たないことです。それが何を意味するのか私たちに分かり易いように、よく似た例を日本の江戸時代に求めてみたいと思います。江戸時代の産業は主に農業、米作りでした。領地を治める大名は参勤交代や幕府に命じられた普請のため常に金がなく大坂や各地の豪商から利子の付くカネを借りていました。日本の江戸時代は、大名も豪商も共に日本人だったので問題は少なかったのですが、この豪商が異民族で、しかも日本人と違う神を拝んでいて、そして後ろ盾の国を持たなかったら、と想像してみてください。ひょっとして日本でも迫害が起こっていたかもしれないです。
ポーランドはモンゴルの侵略の後、西洋に居住していたユダヤ人を自国に導き保護し、彼らの情報力、商業・金融能力を活用した結果国力が伸長していました。ポーランドもスラブ人の国ですが、ギリシャ正教を採用したウクライナやロシアと異なり、カソリックを国教としておりました。ウクライナの大部分を手に入れたポーランドがウクライナを支配する際、異民族で異教徒のユダヤ人を日本でいうところの代官としてポーランド貴族とウクライナ人民の間に立たせ、徴税など恨まれる仕事は彼らにやらせました。
コサックとポーランドの戦争の際、スラブ人であるコサックに最初にやられるのは敵国ポーランドの代官であるユダヤ人でした。情報網をしっかり持っている金持ちユダヤ人は早々と逃げるのですが、貧しいユダヤ人は取り残され虐殺の犠牲者となりました。これが狭義のポグロム、スラブ人によるユダヤ人虐殺の第一歩です。
https://www.sanseito.jp/translation/4757/
有名なミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」の原作はウクライナ出身のイディッシュ語作家ショレム・アレイヘムの短編集「牛乳屋テヴィエ」(1894年)である。舞台は架空の町だが、明らかに19世紀末のロシア帝国領、現在のウクライナにあった「シュテットル(ユダヤ人の多く住む小さな町)」がモデルになっている。
19世紀の牛乳屋テヴィエはポグロム(主にユダヤ人に対する集団的略奪や虐殺)に遭ったが、20世紀、歴史学者であるワッサースタインの祖父母はホロコーストの犠牲になる。父のアディは、幸運が重なって、ベルリンからイタリア、トルコ、パレスチナへと居場所を変えながら、何度も間一髪のタイミングで迫害を逃れる。
元はポーランド領だったクラコーヴィエツは、ドイツに支配され、やがてソ連領になり、現在はウクライナに属しているわけだが、この町で生きたユダヤ人たちも、ポーランド人、ウクライナ人、ドイツ人たちの恨みを買ったり、抗争に巻き込まれたり、弾圧を受けたりして歴史の荒波に翻弄される。
https://www.kyodo.co.jp/col/2024-05-25_3860567/
1941年9月、ドイツ軍占領下のキーウで大規模な爆発が起きます。これはソ連の秘密警察がキーウを撤退する際に仕掛けておいた爆弾だったのですが、ナチス・ドイツはユダヤ人の仕業と決めつけ、一気にユダヤ人を絶滅させようとします。ユダヤ人たちはバビ・ヤールの渓谷に連行され、実に3万3771人のユダヤ人が射殺されました。
このときナチス・ドイツに協力したウクライナ国民もいました。民族主義者たちはユダヤ人を嫌っていたからです。
ソ連軍がドイツ軍を撃退してウクライナを解放した後、ソ連政府は捕虜にしたドイツ兵を裁判にかけ、公開処刑しましたが、事件そのものは、大きく報道されることはありませんでした。当時のソ連でも反ユダヤ主義が蔓延していて、ユダヤ人虐殺事件を非難しようとはしなかったからです。
https://lp.p.pia.jp/article/essay/983/245359/index.html
1980年代の中頃より旧ソ連邦で始まったペレストロイカ政策は、史上類をみない大規模なユダヤ人移民の波を生み出した。一方、事実上消滅して久しかったユダヤ人共同体が各地で次々と復活し、同化傾向の高かった旧ソ連系ユダヤ人のアイデンティティーを再編成させる結果となった。こうした動きを受けて、アメリカやイスラエルの様々なユダヤ人機関は、いち早く旧ソ連邦の同胞に支援の手をさしのべ、慈善活動、文化復興、移民促進などの面で成果をあげている。なかでもユダヤ教超正統派、とりわけハシディズムの諸流派は、70年間の共産党支配によって忘却の淵に沈んでいた伝統的なユダヤ人意識を呼び覚まそうと精力的な活動を展開している。
ハシディズムとは、18世紀中葉にウクライナのポドリア地方で、奇跡業者の一人バール・シェム・トーヴによって創始されたユダヤ教敬虔主義運動である。ボフダン・フメリニツキーによる1648年のユダヤ人大虐殺、1666年を頂点とするシャブタイ・ツヴの偽メシア運動など、17世紀のアシュケナジーム社会は大破局に見舞われた。この精神的空白を埋めるかのように現れたハシディズムは、たちまち幅広い大衆的基盤を獲得し、19世紀末までには東欧全域を席捲した。共産主義革命、内戦とポグロム、そしてとりわけホロコーストといった、20世紀前半に東欧・ロシアのユダヤ人社会全体を襲った一連の出来事は、ハシディズムの存続にとっては致命的な打撃となったが、少数の生き残りが移住した北米やイスラエルなどにおいて、この運動は一命をとりとめた。ニューヨーク、テルアビブ、ロンドンといった超近代的な大都市で、典型的なゲットー社会を形成したハシディズムは、やがてその頑迷な反近代主義的なイデオロギーと出生率の高さに支えられて大きく息を吹き返し、今日では繁栄を誇るまでになった。
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/39011/1/50-003.pdf
ウクライナ侵攻勃発から間もない3月5日、ベネット首相はモスクワを訪問してプーチン・ロシア大統領と対面で会見した最初の外国首脳となった。ウクライナとロシアとの休戦の仲介を申し出たのである。ウクライナとロシア、いずれにも多数のユダヤ人コミュニティがあり、両国からのイスラエル国内への移民も多い。またイスラエルは、欧米、ロシア、ウクライナそれぞれに太い政治的なパイプを持っている。したがって、十分に仲介者たり得るという主張に立った動きともいえるが、イスラエルの本音は、欧米からの批判に対して、仲介者として紛争当事者のいずれに対しても偏った姿勢はとれないという口実を得ようとするところにある。
https://www.ide.go.jp/Japanese/IDEsquare/Eyes/2022/ISQ202220_014.html