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テーマ:ミャンマー(16)
カテゴリ:政治・火影内閣
ミャンマーの歴史は面白い。以下、そのさわりである。 第二帝国を築いたバインナウン王。(1516年1月16日から1581年10月10日) 本名「シン・イェトゥット」、父は砂糖製造業者。 幼少時は白アリがおむつにたかったので「チャテー」白アリと呼ばれた。 母が同年に生まれた王子「タビンシュエティ」の乳母に選ばれ、王子の乳兄弟として成長する。 王子の即位後、武官に取り立てられたところ、数々の武勲をたてたため、王の信任を得ると同時に勇猛果敢な戦いぶりと剛毅な性格で、国を守る青年将軍として名声と衆目を集めていた。 王の側近となって、相談の相手になっていたところ、王の妹と相思相愛の関係になってしまったのだ。 当時の法律では、武官が王族と結ばれることは王家の分裂を招くとして反逆罪とされていた。 シン・イェトゥットは「若い男女が恋に陥るのは罪ではない、しかし、武人として王への忠誠に背く行為であるので、甘んじて処罰を受けると公言した。 宮廷内はおおさわぎとなり、王は大臣や大僧正を招集、一つの結論を出した。 「武官シン・イェトゥットにチョーティン・ノーラタの称号を与え王族に列す。」 すごい。 まさにミラクル大岡裁きである。 王族となれば、有能な将軍を失わずに済み、しかも王はこの上なき強力な支援者を得ることになる。 法律より国益を優先させた好例であり、拙者は、当時のミャンマー宮廷の賢明な判断を評価したい。 国家にとって、有能な人材なくして国益なしである。 王の乳兄弟ゆえ情状で法を曲げたとの指摘もできようが、その後、彼はバインナウン(王の兄)の称号を与えられ、結果としてミャンマー第二帝国の隆盛に貢献することになったことで証明される。 逆に、のちのコンバウン時代において、内紛がつづき反乱を恐れる王の狭量な採決により有能な将軍を数度にわたって次から次へと処刑してしまったため、イギリス軍に立ち向かえず、植民地にされてしまった例もある。 とくに、最盛期乾隆帝時代の中国と4度戦い完全勝利(緬清戦争)しただけでなく、さらに後顧の憂いをなくすため独断和平した大将軍マハ・ティハ・トゥラが宮廷内の争いで処刑されてしまったことは、ミャンマー人にとってその後を亡国の悲しみで覆ってしまうことになった。 その災禍を克服するには日本軍とアウンサンの登場を待たねばならなかった。 ちなみに、拙者の私見であるが、田中角栄という逸材を5億円容疑で失ない、田中ブレジネフ会談の成果を消滅させ、わが国は北方領土という巨大な国益を逃したと考えている。 一方ドイツではヴィリー・ブラントによる東方外交の功績を優先させ、スキャンダルにも関わらず、SPD党首として温存し、ドイツ統一を成し遂げさせた。 (参照文献 山口洋一「歴史物語ミャンマー」及びウィキペディア。)
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最終更新日
2019年07月14日 03時40分02秒
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