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テーマ:聖地・神社仏閣・パワースポット
カテゴリ:ご祭神、神社等のいわれ
第45回 五穀豊穣の神様 宇迦之御魂神をはじめとする稲荷大神ついて、 第45回 五穀豊穣の神様 宇迦之御魂神をはじめとする稲荷大神ついてです、なんか、久しぶりの本編なのにかかわらず、前回の『FGO』シリーズの続きの様な感じがします。なお、「Fate/Zero」 がミュージカル化されます、出演は新木宏典、秋野祐香、山内優花、佃井皆美、遠山裕介、丘山晴己、北園涼、伊藤裕一、輝馬、佐々木喜英、吉田メタル、健人、平松來馬/ 岸 祐二とか、これはファンには楽しみですね。 話は戻りますが、稲荷神社は2970 社(主祭神として)、32000 社(境内社・合祀など全ての分 祀社)を数え、その数は第1位。 国玉神とは、国魂神、国霊神とも言い、日本人固有の神霊に関する信仰の一形態で、国土そのものの神霊とされています、個人や企業などに祀られているものや、山野や路地の小祠まで入れると稲荷神を祀る社はさらに膨大な数になります、それ程数が多く親しまれています、逆に管理されていない廃神社等も多く問題になってもいます。今回の表紙は『FGO』の玉藻の前ですが、玉藻の前、彼女もまた稲荷大神の1柱とされています、他にも豊受大神や保食神、瀬織津姫等も稲荷大神とされ、その複数を含めて稲荷大神と呼びます。しかし、主なご祭神は宇迦之御魂神と荼枳尼天(だきにてん)の二柱、この二柱は全く違う経緯を辿ってはいましたが、後に同一視されました。 前回は特別編 8 うちのランサーすぐタヒぬ のクー・フーリンを紹介しました、『Fate/stay night』登場したサーヴァントですが、どのルートでも酷いタヒに方をするそれこそ「救いのないですか~」人物、いや、マジでそうだからしょうがない、公式でも「ランサーが死んだ!」ってなっている不憫なキャラであり、その後のランサーの命運を決定づけた人物でも、しかも、何度かネタにもされている。彼はケルト神話の英雄で、アイルランドの小学校の教科書にも登場するし、完全にいい迷惑だ。 なお、本編は第44回 龍神様についてついての紹介です、龍神様は謎多き神様で自然現象が元、世界各地に龍の存在が確認されます、幅広いため基本的な事やスピリチュアル的な事も混ざっていると思います。しかし、近年では龍神様はスピリチュアル的要素がが強すぎます、まかり間違ってもスピ系み詐欺に騙されないようにしたいですね。 ※その前に、、、 【アニメージュ12月号/11月9日(土)発売】 6年ぶりに表紙を飾る『#ゲゲゲの鬼太郎』シリーズ。鬼太郎の父と水木が、初代スーパーカブで秋の行楽へ!? 『#鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』巻頭特集24P! 絵コンテや色彩・撮影素材など、豊富な資料とインタビューで、真生版上映とBlu-ray発売を盛り上げます🍁(アニメージュ編集部 @animage_tokumより、) …実は12月号は予約段階で既に売れ切れている、オヤジが萌えキャラ???になったお陰でコレだよ、おっさんずナントカなら幾ら盛っていいという風潮、ちなにみ、映画の方は「救いはないですか〜」と言う感じですが… (JRA FUN @JRAFUN_Official) 白毛の #ハヤヤッコ が、#アルゼンチン共和国杯(GII) を優勝🥇 ダートと芝の重賞を制している「白毛の二刀流」が重賞3勝目‼️ おめでとう🎉 #JRA #JRAFUN #吉田豊 ユーバーレーベンハヤヤッコンは草wwwwまとめて差し切るのはほんと草wwwwこのイケオジ応援してたし、旧時代の扉、なんか今回はイケオジ達が頑張ってるな、やっぱり白毛は吉田兄弟でしょう。 ※宇迦之御魂神はやっぱりイケオジかも、 ※追記、11月5日(火曜) 【🇦🇺#メルボルンカップ 速報】 菅原明良騎手騎乗🇯🇵ワープスピード、馬群を縫って縫って猛追も僅か及ばず2位入線…!勝ったのは地元豪州の🇦🇺ナイツチョイス! #ワープスピード (Warp Speed) | 競走馬データ(netkeibaより、) わー惜しかったですね、2着。もう少し…しかし、菅原騎手とワープスピード🏇よくやりました。 ※今回は過去に書いたもののまとめになっております、例えば、神社紹介でも稲荷神社を紹介する事が多いですし。 TRADITION 五穀豊穣の神様で商売繁盛のご利益あり 「宇迦之御魂神(ウカノミタマ)」 日本人なら知っておきたいニッポンの神様名鑑 宇迦之御魂神(ウカノミタマ) 全国各地に数多くあるお稲荷さんで知られる稲荷神社のご祭神が、このウカノミタマノカミ。「ウカ」とは穀物を意味し、その魂を表す。そのため、五穀豊穣を司り、途中からお稲荷さんを信奉した商人が成功をおさめていったことから、商売繁盛の神様としても広く崇められている。 古事記:宇迦之御魂神 日本書紀:倉稲魂命 基本属性:穀物の神 代表的ご利益:商売繁盛 代表的神社:伏見稲荷大社 秦公伊呂具が和銅4年(711年)に稲荷山の三ヶ峰に稲荷大神を祀ったことが始まり。全国に約3万社ある稲荷神社の総本宮で商売繁昌、家内安全のご利益もある。 伏見稲荷大社 京都府京都市伏見区深草藪之内町(Discover Japanより、) 浮羽稲荷神社 主祭神:稲魂神、大山咋神、菅原道真 ウカノミタマはどんな神様?描かれる姿と伝承 ウカノミタマとは? ウカノミタマは八百万の神の中で代表的な食物神。全国の稲荷神社で祀られる神さまです。「お稲荷さん」と呼ばれ親しまれています。「衣食住ノ太祖ニシテ萬民豊楽ノ神霊ナリ」と崇められ、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全、諸願成就の神として広く信仰されています。 ウカノミタマの名称・神格・利益 古事記:宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ) 日本書紀:倉稲魂命(うかのみたまのみこと) 和名類聚抄:宇介乃美太万(うかのみたま)、宇加乃美太万(うかのみたま) 別称:御倉神(みくらのかみ)、屋船豊宇気姫命(やふねとようけひめのみこと)、専女(とうめ)、三狐神(みけつかみ)、調御倉神(つきのみくらのかみ)、稲荷神(お稲荷さん) 神格:穀物神、農耕神、百貨店の神、諸産業の神、麻雀の神、タバコ屋の神 神徳・ご利益:金運向上、産業振興、商売繁盛、家内安全、芸能上達、五穀豊穣、諸願成就、交通安全 関連神:父神(古事記)須佐之男命、母神(古事記) 神大市比売、兄神(古事記)大年神、父神・母神(日本書紀)伊邪那岐命・伊邪那美命 八百万の神の中で代表的な食物神 『日本書紀』ではイザナギ命とイザナミ命が「国生み」で大八島をつくった後、飢えて気力がないときに生まれました。飢えた時に食を要することから、穀物神である倉稲魂命が生じたと考えられています。『古事記』ではスサノオ尊とオオイチヒメ命の子として登場します。どういう神かまでは記されませんが、神名の「宇迦」は穀物や食物の意味があることから穀物、食物の神とされます。『記紀』ともに性別が明確にわかる記述はないですが、古くから女神として信仰されてきたようです。「宇迦(うけ)」は食物の古形、稲霊を表し、「御」は神秘・神聖、「魂」は霊とすることから、ウカノミタマ神は「稲に宿る神秘な霊」と考えられます。食物の主役は穀物。「稲」はその中心であり、主食を保証する神の名前が倉稲魂(ウカノミタマ)と表記されるのもそういう理由からでしょう。 稲荷信仰と習合し全国に広がる 稲荷信仰は奈良時代に発生しました。伏見稲荷大社の社伝には「和銅四年(711)に稲荷山三ヶ峰に稲荷神が鎮座した」とあり、その場所は現在の伏見稲荷大社がある場所です。稲荷信仰のルーツは当時その一帯に住んでいた豪族の秦氏で、自分たちの氏神として、また穀霊神、農耕神として祀っていました。秦氏の勢力拡大にともない、稲荷信仰もしだいに拡大していきます。この稲荷神とウカノミタマ神はどちらも稲魂(穀霊)、食物神というところが共通していることから同一視され、結びついたと考えられています。稲荷は「稲生る」が転訛したという説もあり、その信仰の核は「百穀の首座にある稲霊」にほかなりません。それはウカノミタマ神の性格とも一致します。ただ、稲荷神には本来殖産興業の守護神としての性格があったと考えられます。それが今日の稲荷神の霊験に大きく影響しています。後に稲荷神は神仏習合、さまざまな民間信仰を巻き込みながら、日本の民族宗教のなかにおける代表的な霊威神として確立します。 お稲荷さんとキツネの関係は? 「お稲荷さん」と聞くとキツネを思い浮かべる方が多いと思います。このキツネは「目の見えない白狐」とされ、稲荷神の眷属で神の使いとされます。自然界のキツネは冬の間は冬眠しますが、春になると山から人里へ下りてくることがあります。そのため山の神、すなわち豊穣をもたらす神の存在として見られてきました。 同一視される食物神 食物をつかさどる基本的な性格から、ウカノミタマ神は同じ食物神である豊受大神(とようけのおおかみ)と同一の神格とみられます。日本の神さまというのは神話で違った名前で出てきても、基本的な性格が類似することから同一神であるという議論がなされることが多いです。それはあくまで学問的な問題であって、私達の生活のなかでは、伏見稲荷大社の主祭神のウカノミタマ神と伊勢神宮のトヨウケ大神はまったく別の神です。さらに稲荷神を祀る稲荷社の祭神については、ウカノミタマ神以外にトヨウケ大神、ワカウカメノ命、ウケモチ神、オオゲツヒメ神、ミケツ神を祀る場合も多く見られます。そのいずれも神名に「ケ・ウケ・ウカ」という穀物、または食物そのものを表しており、食物をつかさどる神という性格上、ウカノミタマ神と同一神と考えられることが多いようです。 宇迦之御魂を祀る神社【全国版】 札幌伏見稲荷神社 北海道札幌市中央区伏見、清田稲荷神社 北海道札幌市清田区里塚、高山稲荷神社 青森県つがる市牛潟町鷲野沢、稲荷神社 秋田市浜田字館野前、奥州総鎮護 志和稲荷神社 岩手県紫波郡紫波町升沢前平、歌懸稲荷神社 山形県山形市十日町、竹駒神社 宮城県岩沼市稲荷町、福島稲荷神社 福島県福島市宮町、門田稲荷神社 栃木県足利市八幡町、笠間稲荷神社 茨城県笠間市笠間、多田朝日森稲荷神社 千葉県香取市多田、箭弓稲荷神社 埼玉県東松山市箭弓町、東伏見稲荷神社 東京都西東京市東伏見、新田稲荷神社 神奈川県相模原市中央区共和、寳德山稲荷大社 内宮 新潟県長岡市飯塚、越中稲荷神社 富山県富山市稲荷町、広坂稲荷神社(石浦神社) 石川県金沢市本多町、稲荷神社 福井県越前市国府、正ノ木稲荷 稲積神社 山梨県甲府市太田町、日本五大稲荷 鼻顔稲荷神社 長野県佐久市岩村田花園町、割狐塚稲荷神社 静岡県駿東郡長泉町下土狩、千代保稲荷神社 岐阜県海津市平田町三郷、三光稲荷神社 愛知県犬山市犬山北古券、玉三稲荷神社 三重県桑名市大字上野、稲荷神社 滋賀県野洲市小篠原、伏見稲荷 京都市伏見区深草藪之内町、玉造稲荷神社 大阪府大阪市中央区玉造、源九郎稲荷神社 奈良県大和郡山市洞泉寺町、狐島稲荷神社 和歌山県和歌山市狐島字北川原、安志稲荷神社 兵庫県姫路市安富町安志、千代(せんだい)稲荷神社 岡山県津山市山下、草戸稲荷神社 広島県福山市草戸町、伯耆稲荷神社 鳥取県東伯郡琴浦町箆津、太皷谷稲成神社 島根県鹿足郡津和野町後田、元乃隅神社 山口県長門市油谷津黄、稲荷神社 徳島県徳島市南佐古二番町、中野稲荷神社 香川県高松市中野町、伊豫稲荷神社 愛媛県伊予市稲荷、土佐稲荷神社 高知県高知市二葉町、浮羽稲荷神社 福岡県うきは市浮羽町流川、祐徳稲荷 佐賀県鹿島市古枝乙、扇森稲荷神社 大分県竹田市拝田原、熊本城稲荷神社 熊本県熊本市中央区本丸、一葉稲荷神社 宮崎県宮崎市新別府町前浜、御館山稲荷神社 長崎県諫早市宇都町、稲荷神社 鹿児島県日置市東市来町湯田 全国の稲荷神社、稲荷社は三万二千社、名もない小さな子社まで含めれば四万とも五万とも言われます。総本社とされるのが京都の伏見稲荷大社で、祭神の稲荷大神が宇迦之御魂神とされています。(日本の神様と神社より、) ここでは男性の宇迦之御魂神ですが、 伏見稲荷が舞台の『いなり、こんこん、恋いろは。』では女神、そのイメージの方が強いかと思います。更に、他に稲荷神とされる豊受大神や保食神、瀬織津姫は全て女神で、九尾の狐の妖で絶世の美女 玉藻の前、吒枳尼眞天(だきにしんてん)は白い狐に跨っておられる女神で稲荷神としてお祀りされています。実際の宇迦之御魂神が男神か女神は地域差によるもので、伝説によって女神の時もあるし、弁財天に求婚(ナンパ)した男神でもあります。 なにせ、主祭神として2970 社、境内社・合祀など全ての分祀 社32000 社を数え、その数は第1位、個人や企業、山野や路地の小祠まで、その数は膨大になり、近所でコンビニよりもお稲荷さんを見掛けない事はありません。そもそも男女どちらもお祀りされててもおかしくないし、更に時期や時代差もあると思います。おそらく、その土地の土地神様が稲荷神とされた事もあると思っています、更には様々なら経緯の神様が複数柱お祀りされている事も。先に述べたように、その分管理されていない廃神社等も多く、アニメや漫画、書籍等の影響から、宇迦之御魂大神を女神と思って近くの稲荷神に”会いたい”等のお参りすることは時には非常に危険が伴う行為だと思います。なお、稲荷神社が何か怖いと感じるのも、例えば、管理されてない場所が多かったりする事だったりしますし、…管理されててもただでさえ薄暗くて怖いですから。だから、怖いと感じたら近づかない方は懸命かもしれません、今回は稲荷大神を取り上げてて何なのですが。 後、稲荷神社の神様は狐をイメージされる方も多いようです、表紙の玉藻の前は稲荷神と同一視されておりますが、元ネタは九尾の狐で鳥羽上皇をたぶらかした女性の妖、中国では妲己、やはり皇帝をたぶらかしています、更に彼女には狐の尾が有りますし、これは狐が神様と間違えてもしょうがなでしょう。更に、豊川稲荷の鎮守 吒枳尼眞天(だきにしんてん)は仏教の女神様で白い狐に跨っておられますし、ですが、狐はあくまで稲魂大神(稲荷大神)のお使いであって、神さまそのものではありません。狐は熊野神社の烏や八幡神社の鳩、氏神さまの狛犬などと同じように神使(かみのつかい)や眷属(けんぞく)などと呼ばれ、神さまのお使いをする霊獣です。 紅葉八幡宮 境内社 宇賀稲荷神社 ご祭神:宇迦御魂神 御祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ) - 笠間稲荷神社 御祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ) 生命の根源を司る「いのち」の根の神として農業、工業、商業、水産業など、あらゆる殖産興業の守護神として人々の生活すべてに御神徳を授けて下さる神さまです。 日本の神話が書かれている『古事記』によると、宇迦之御魂神は須佐之男命(すさのおのみこと)と神大市比売神(かむおおいちひめのかみ)の間の御子とされています。農牧、水産、養蚕を始めあらゆる殖産興業の神、蘇生(よみがえり)の神、生成発展の神、産霊(むすび)の神、火防の神として霊験あらたかな御神徳が普く全国の人々より崇敬されています。 御祭神について 「お稲荷さん」と親しまれている稲荷大神は日本人に最も身近な神さまで、五穀豊穣、商売繁栄、殖産興業、開運招福、火防(ひぶせ)の守護神として、広大無辺のご神徳を慕って多くの人々に崇敬されています。「イナリ」の語源については諸説があり、「イナリ」は「イネナリ(稲成、稲生り)」で、稲が育つさまを表しているとも、「イネカリ(稲刈)」の「刈」が「荷」に誤られたとも、また「イナニ(稲荷)」が「イナリ」に転訛したとも言われています。稲荷大神はご神名を宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と称し、「ウカ」とは「貴い食物」を意味します。つまり宇迦之御魂神とは、「稲に宿る神秘的な精霊」を表し、五穀をはじめ一切の食物を司る神さま、生命の根源を司る「いのち」の根の神さまです。宇迦之御魂神は須佐之男命(すさのおのみこと)と神大市比売神(かむおおいちひめのかみ)との間に生まれた神さまで、倉稲魂神とも書きます。兄神には「大年神」がいらっしゃいます。父の須佐之男命は天照大神の弟神として有名ですが、母の神大市比売神はご神名に「市」をもたれるように「市場」や「流通」の神さまで、兄神の大年神は「大年(おおとし)」すなわち「大稲(おおとし)」の神さまで、私たちがお正月に「年神さまを迎える」という時の「年神さま」に当たります。宇迦之御魂神は、「古事記」の大宜津比賈神(おおげつひめのかみ)や「日本書紀」の保食神(うけもちのかみ)と同神で、いずれも五穀の起源の神さまとして記されています。以上のことから分かりますように、宇迦之御魂神は御自身が食物を司る神さまであるとともに、一族に流通や稲に関わる神を持つ、人間の生活にとって根源的な役割を司る神さまであられるわけです。食物の神、農業の神として崇敬された宇迦之御魂神は、民間の工業や商業が盛んになりますと興業の神としての信仰が広がっていきます。近世になると農家ばかりでなく、商家、町家、大名にいたるまで稲荷大神の広大無辺な御神徳を慕われて、殖産興業の神として稲荷大神への信仰、崇敬心が深まり、御分霊をいただいて屋敷神や家庭神、地域神としてお祀りする人々が増えていきました。 稲荷神社とおキツネさん いっぱんに「お稲荷さん」と言えばキツネをイメージされる方が多いようです。キツネはあくまで稲荷大神のお使いであって、神さまそのものではありません。稲荷大神にとってキツネは、熊野神社のカラスや八幡神社のハト、氏神さまの狛犬などと同じように「神使(かみのつかい)」「眷属(けんぞく)」などと呼ばれ、神さまのお使いをする霊獣です。これは中世の時代に、人間が持っている様々な欲望を直接神さまに祈願するのは畏れ多いとして、特別に選ばれた動物を通してお願いすることが行われたことによるものです。キツネがお使いとして選ばれたのは、稲荷大神が農業神であることと深く結びついています。民俗学者の柳田國男も指摘しているように、日本人には古くから神道の原形として「山の神、田の神」の信仰があります。これは春になると山の神が山から里へ降り、田の神となって稲の生育を守護し、収穫が終えた秋に山へ帰って、山の神となるという信仰です。キツネも農事の始まる初午の頃から収穫の終わる秋まで人里に姿を見せていて、田の神が山へ帰られる頃に山へ戻ります。このように神道の原形である「田の神、山の神」と同じ時期に姿を見せるキツネの行動から、キツネが神使とされるようになりました。このキツネが稲荷大神のご祭神と混同されるようになったのは、平安時代以降の神仏習合により、稲荷大神が仏教の守護神、茶枳尼天(だきにてん)の垂迹(すいじゃく)とされたからです。茶枳尼天はまたの名を白晨狐菩薩(びゃくしんこぼさつ)と言い、キツネの精とされました。このことから、いつの間にか一般民衆の間で、稲荷大神のご祭神とキツネが混同して理解されてしまったわけです。また、稲荷大神のまたの名である御饌津神(みけつがみ)の「ミケツ」が混同されて、三狐神(みけつがみ)と記されたことも一因と考えられます。御饌津神とは文字通り「御(=尊称)饌(=食物)津(=の)神」で、食物を司る神を意味していて、キツネとは全く関係はありません。稲荷大神の信仰の起源は古く、しかも、稲作文化を育ててきた日本人に最も親しみやすい神さまとして永く崇敬されてきただけに、途中にさまざまな迷信や俗信、誤解が生じたり、附会されたこともあったことと思われます。しかし、神社神道本来の心である「明き心」「清き心」「正しき心」「直き心」をもってご祭神、宇迦之御魂神のご神慮とご神徳を正しく理解して、信仰心を高め、より深い崇敬を捧げることがいっそう大切となります。 (笠間稲荷神社HPより、) 荼吉尼天の秘密 未来を開く不思議な天尊/羽田守快 豊川稲荷について 当山の歴史 豊川稲荷は正式名を「妙嚴寺」と称し、山号を圓福山とする曹洞宗の寺院です。一般的に「稲荷」と呼ばれる場合は、「狐を祀った神社」を想像される方が多数であると思われますが、当寺でお祀りしておりますのは鎮守・豐川吒枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)です。豐川吒枳尼眞天が稲穂を荷い、白い狐に跨っておられることから、いつしか「豊川稲荷」が通称として広まり、現在に至っております。 寒巌義尹禅師略伝 圓福山妙嚴寺の歴史は寒巌義尹(かんがんぎいん)禅師を抜きにして語ることは出来ません。寒巌禅師は第八十四代順徳天皇の第三皇子として京都の北山にお生まれになりました。出家得度当時は天台の教学を学ばれておりましたが、後に越前の日本達磨宗にて禅に参じ、さらに文暦元年(西暦1234)の頃、宗風一世を風靡していた日本曹洞宗祖道元禅師を宇治の興聖寺に尋ね、親しく膝元に参ずることおよそ十年、御年二十六歳の時道元禅師の法をお嗣ぎになりました。寛元元年(1243)「時世を救う」の大願心を発して当時宋代の中国へ渡り諸山の名刹を行脚、諸名徳に歴参して仏法の深義を究められました。建長六年(1254)に帰国された折りには師道元禅師はすでになく、永平寺は二世・孤雲懐弉禅師の代になって居りました。その後寒巖禅師は宇治・興聖寺にて道元禅師の語録を編纂集成されました。弘長三年(1263)語録を携えて再び入宋、諸山を尋ね道元禅師語録の跋文を受けられ、文永四年(1267)に帰国、筑前博多の聖福寺に身を寄せられました。その後は宇土郷に三日山如来寺を創建、つづいて飯聚寺を開いて大悲像を安置、建治二年には熊本は釈迦堂村に青堤山極楽寺を開き、同年五月、自ら筆をとって 幹縁文を草し、四方に勧進して浄財をつのり、白河・綠川の難所に大渡橋を約一年半を費やして架設、弘安六年その大渡橋畔に大梁山大慈寺を創建、また弘安七 年には飽託郡の海辺に約200ヘクタールもの農地を干拓、開墾される等、「時世を救う」の大願は一つずつ成就し、その数重なる衆生済度の実績は九州一円は 言うに及ばず、遠く鎌倉の将軍の元へ、また天皇の在す京都にも伝わるものでした。永仁七年(1299)八十三歳にして大慈寺をお弟子に譲り、正安二年(1300)八月二十一日、八十四歳の天寿を全うして御入滅せられました。寒巌禅師のお墓は大慈寺、如来寺及び浜松普済寺にあります。 豐川吒枳尼眞天の由来 寒巌禅師は七百余年前の交通不便の時代にもかかわらず、「時世を救う」の大信念を貫いて二度までも宋国(中国)へ渡られました。その二度目の入宋よりの御帰朝に際し、いよいよ船に乗って海上に出られた時、たちまち霊神が空中に姿を現されました。見目麗しきその霊神は稲束を荷い、手に宝珠を捧げ、白狐に跨って声高らかに真言を唱えながら現れます。 真言:オン シラバッタ ニリ ウン ソワカ 唵尸羅婆陀尼黎吽娑婆訶 「われはこれ吒根尼眞天なり、今より将に 師の法を護するにこの神咒を以てし、又師 の教化に帰服する者を守りて、常に安穏快 楽ならしめん、必ず疑うこと勿れ」 この出来事に深く感激された寒巌禅師は帰国後自ら霊神の形像を刻まれ、護法の善神としてお祀りになり、常にお弟子に彼の真言を唱念し、御祈祷するように訓えられました。その後六代目のお弟子・東海義易禅師がここ豊川の地に妙嚴寺御開創の折、御本尊に寒巌禅師伝来の千手観世音菩薩を安置し、寒巌禅師御自作の豐川吒枳尼眞天像を山門の鎮守としてお祀りになりました。嘉吉元年(1441)旧暦十一月二十二日のことです。その霊験は顕著で、今川義元公、織田信長公、豊臣秀吉公、徳川家康公等歴代著名人をはじめ広く一般信者の帰依信仰を集めて参りました。時は明治に至って神仏分離が発令され、廃仏毀釈の暴勢に乗じて一時は当山もその厄に遇うこと必至と思われましたが、幸い第二十八世霊龍禅師およびそのお弟子第二十九世黙童禅師の善処によって寒巌禅師の勝躅を護持し、豐川吒枳尼眞天の霊験をいよいよ顕彰せられましたことは特筆すべきことです。以後は「尊天様」の愛称で親しまれ、その信仰は日本国内はもとより遠く海外からも大勢の参拝祈願者を迎え、現在に至っています。また、明治時代には有栖川宮家より『豐川閣』の大額が下賜されて以来、当山は『豐川閣(とよかわかく)』という呼称でも広く知られることとなりました。 平八郎稲荷の伝説 豐川吒枳尼眞天を豊川稲荷と称する因縁は冒頭でご説明した通りです。「いなり」とは「イナノリ」の音便で、ノリは実登の義で、豊年を意味して稲荷と書くわけです。また、豐川吒枳尼眞天は世に「平八郎稲荷」とも称せられています。以下にその理由を御紹介しましょう。東海義易禅師が妙嚴寺開創の時、一人の老翁があらわれ、「お手伝いをいたします」と禅師の左右に侍してよく働き、自ら平八郎と称していました。老翁は一つの小さな釜を持っているだけで、ある時は飯を炊き、ある時は菜を煮、又ある時は湯茶を沸かし、しかも幾十人幾百人を展待するのにもこの不思議な釜一つで間に合いましたので、その神通に驚かないものはありませんでした。そこである人が一体どのような術を使っているのかと尋ねると、平八郎はにっこりと笑って「私には三百一の眷属がありますので、どんな事でも出来ないということはありません。又どんな願いも叶うのです。」と申しました。この不思議な老翁は、開山禅師が遷化されてから忽然と姿を消してしまいましたが、あとには翁が使っていた釜だけが残されていました。この因縁により世に平八郎稲荷と称えられるようになりました。この平八郎稲荷と三百一の眷属に対しては、年二度の大祭の時、儀式中に眷属供養の厳粛な秘法加行を伝承的に執行しております。(豊川稲荷公式HPより、) 宇迦之御魂神は大歳神と兄弟(兄妹)ですね、知名度には差がありますが…。もともと、秦氏がもたらした神様で後に記紀に組み込まれました。だから、竹田恒泰氏は日本神話、つまり、皇室の神とは違うとおっしゃっております。なお、稲荷神は大きく二柱で宇迦之御魂神と吒根尼眞天(だきにしんてん)、笠間稲荷神社のご紹介文ですが、、日本三大稲荷は1つ目が総本宮の伏見稲荷大社、2つ目が仏教の豊川稲荷で正式名は妙嚴寺、3つ目が問題で笠間稲荷神社やアジアから来る外国人に人気の祐徳稲荷神社等の複数、三大〇〇の三つ目は何か問題は結構ありがちの話ですが…まあ、そこは厳密にしない方が良いかもしれません。いっそ伏見稲荷大社と豊川稲荷は確実に取り上げられて日本二大稲荷とも呼ばれいます、なお、一般的に危ないとされている稲荷神は吒根尼眞天の仏教の神様とされてますが、伏見稲荷大社もお参りしていても暗くて怖い場所が結構ありますが、、、伏見稲荷大社は近年は外国人が多い分、色々な願いが込められていますし。なお、元メジャーリーガーであるイチローさんはよく豊川稲荷にお参りしていたというエピソードがあります、あの強さも更に神様の力の後押があるからこそだと思ってます、その分だけちゃんとお返しもしていると思う。なお、稲荷神は願いが叶った分だけお返しするのが筋とされています。 伏見稲荷大社 千本鳥居 稲荷神 稲荷神(いなりのかみ、いなりしん)は、稲を象徴する穀霊神・農耕神。稲荷大神(いなりおおかみ)、稲荷大明神(いなりだいみょうじん)また、お稲荷様、お稲荷さんともいう。五穀をつかさどる御食津神・ウカノミタマと稲荷神が同一視されることから、総本宮の伏見稲荷大社を含め、多くの稲荷神社ではウカノミタマを主祭神としている。本来は穀物・農業の神だが、現在は商工業を含め産業全体の神とされ、日本で最も広範に信仰されている神の一つである。稲荷神は神仏習合思想において仏教の女神である荼枳尼天とも習合したため、仏教寺院で祀られることもある。もとは古代社会において、「渡来人であった秦氏の氏神的稲荷信仰をもとに、秦氏の勢力拡大に伴って伏見稲荷の信仰圏も拡大されていった」と『日本民俗大辞典』は述べている。本来の「田の神」の祭場は狐塚(キツネを神として祀った塚・キツネの棲家の穴)だったと推測されるが、近世には京都の伏見稲荷を中心とする稲荷信仰が広まり、狐塚に稲荷が祀られるようになった。 概要 稲荷神を祀る神社を稲荷神社(いなりじんじゃ)と呼び、京都市伏見区深草にある伏見稲荷大社が日本各所にある神道上の稲荷神社の総本宮となっている。伏見稲荷大社では、狐は稲荷神の神使とされる。稲荷神は、和銅4年(711年)に山城国稲荷山(伊奈利山)、すなわち現在の伏見稲荷大社に鎮座したと伝えられている。元々は京都一帯の豪族・秦氏の氏神で、現存する旧社家は大西家である。神道系の稲荷神社では朱い鳥居と、神使の白い狐がシンボルとして広く知られる。廃仏毀釈が起こる前の仏教系寺院でも鳥居が建てられ、現存する寺院もある。元来は五穀豊穣を司る神であったが、時代が下って、商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の守護神としても信仰されるようになった。「稲成り」の意味だったものが、稲を荷なう神像の姿から後に「稲荷」の字が当てられたとされるが、「稲生」や「稲成」、「伊奈利」とする神社も存在する。 神社における祭神 神道の稲荷神社では『古事記』・『日本書紀』などの日本神話に記載される宇迦之御魂神(うかのみたま、倉稲魂命とも書く)、豊宇気毘売命(とようけびめ)、保食神(うけもち)、大宣都比売神(おおげつひめ)、若宇迦売神(わかうかのめ)、御饌津神(みけつ)など、穀物・食物の神を主な祭神とする。これは、稲荷神が稲の神であることから食物神の宇迦之御魂神と同一視され、後に他の食物神も習合したためである。総本宮である伏見稲荷大社では、主祭神である宇迦之御魂大神を中央の下社、佐田彦大神を中社、大宮能売大神を上社に据え、明応8年(1499年)に本殿に合祀された左右の摂社、田中大神・四大神とともに五柱の神を一宇相殿(一つの社殿に合祀する形)に祀り、これら五柱の祭神は稲荷大神の広大な神徳の神名化としている。稲荷社によっては祭祀する祭神が異なっており、以下に例を挙げる。 生玉稲荷神社(名古屋市守山区) - 倉稲魂神、大巳貴命、保食神、大宮能姫神、太田神 笠間稲荷神社(茨城県笠間市)- 宇迦之御魂神 豊受稲荷本宮(千葉県柏市) - 主祭神に稲蒼魂命、配神に大己貴命(佐田彦大神)、大田命、大宮姫命(田中大神)、保食命(四大神) 祐徳稲荷神社(佐賀県鹿島市) - 倉稲魂大神、大宮売大神(アメノウズメノミコト)、猿田彦大神 竹駒神社(宮城県岩沼市)- 倉稲魂神、保食神、稚産霊神 穴守稲荷神社(東京都大田区) - 豊受姫命 また、玉藻の前(九尾の狐・殺生石)が祭られていることもある。 仏教寺院における信仰対象 稲荷神は神仏習合思想においては、江戸時代までは仏教における十一面観音や聖観音を本地仏とされるとともに、特に江戸時代以降は荼枳尼天とも同一視されていた。例えば、伏見稲荷大社の神宮寺である愛染寺でも荼枳尼天が祀られていた。明治の神仏分離後も主に荼枳尼天として、豊川稲荷を代表とする仏教寺院でも祀られている。 豊川稲荷(愛知県豊川市)- 豊川吒枳尼眞天 最上稲荷妙教寺(岡山市北区)- 最上位経王大菩薩、八大龍王尊、三面大黒尊天 稲荷神と狐 民俗学者・萩原龍夫の解説では、古くから狐は霊的動物として「稲荷(いなり)神の使いないしは稲荷神そのもの」と信仰されるなど深く広い各種の信仰があり、狐憑きは「御先稲荷」(オサキドウカ)や「オサキ」という名前で、関東から東北にかけて伝承されている。日本語文化研究者・劉克華の報告では、日本全国に存在する三万社以上の稲荷社が狐像を備えており、「狐」自体を「稲荷神」として信仰する場所も少なくない。しかし、伏見稲荷大社は狐を稲荷神の神使とし、稲荷神そのものではないと述べており、また最上稲荷山妙教寺は白狐を稲荷神(最上位経王大菩薩)の御眷属(お使い)と述べている。民間伝承においては、稲荷と狐はしばしば同一視されており、例えば『百家説林』(ひゃっかせつりん・ひゃっかぜいりん)に「稲荷といふも狐なり 狐といふも稲荷なり」という女童の歌が記されている。また、稲荷神が貴狐天皇(ダキニ天)、ミケツ(三狐・御食津)、野狐、狐、飯綱と呼ばれる場合もある。日本では弥生時代以来、蛇への信仰が根強く、稲荷山も古くは蛇神信仰の中心地であったが、平安時代になってから狐を神使とする信仰が広まった。稲荷神と習合した宇迦之御魂神の別名に御饌津神(みけつのかみ)があるが、狐の古名は「けつ」で、そこから「みけつのかみ」に「三狐神」と当て字したのが発端と考えられ、やがて狐は稲荷神の使い、あるいは眷属に収まった。なお、「三狐神」は「サグジ」とも読む。かつて「シャグジ(石神)」または「三狐神(シャグジ)」であった岩屋(神)が、後に稲荷神・ウカノミタマを祀る神社となった事例もある。時代が下ると、稲荷狐には朝廷に出入りすることができる「命婦」の格が授けられたことから、これが命婦神(みょうぶがみ)あるいは白狐神と呼ばれて上下社に祀られるようにもなった。上記の通り稲荷神は元々は農業神であるが、狐は穀物を食い荒らすネズミを捕食すること、狐の色や尻尾の形が実った稲穂に似ていることから、狐が稲荷神の使いに位置付けられたとも言われる。江戸時代に入って稲荷が商売の神と公認され、大衆の人気を集めるようになった。またこの頃から稲荷神社の数が急激に増え、流行神(はやりがみ)と呼ばれる時もあった。また仏教の荼枳尼天は、日本では狐に乗ると考えられ、稲荷神と習合されるようになった。今日稲荷神社に祀られている狐の多くは白狐(びゃっこ)である。江戸などの大都会や、屋敷稲荷を祀る東日本の農村では、狐憑きはしばしば稲荷との関連で発生しており、症状が良性である場合も多い。一方で、もともと狐信仰が弱かった山陰・南四国・東九州などの一部では、「憑き筋」と呼ばれる家系が想定され、村落の社会的緊張を生んだ。稲荷神社の前には、狛犬の代わりに、宝玉をくわえた狐の像が置かれることが多い。他の祭神とは違い、稲荷神(稲生り、つまりお米の出来を司る神様)には神酒・赤飯の他に俵を模した俵型の寿司(稲荷寿司)およびそれに使用される油揚げが供えられ、ここから油揚げを使った料理を「稲荷」とも呼ぶようになった。ただし狐は雑食であり、実際は特段油揚げが好物なわけではない。 歴史 伏見稲荷創建前史 伏見稲荷大社を創建したと伝えられる秦氏族について、『日本書紀』では次のように書かれている。 欽明天皇が即位(539年または531年)する前のまだ幼少のある日「秦(はた)の大津父(おおつち)という者を登用すれば、大人になった時にかならずや、天下をうまく治めることができる」と言う夢を見て、早速方々へ使者を遣わして探し求めたところ、山背国紀伊郡深草里に秦の大津父がいた。 平安時代に編纂された『新撰姓氏録』記載の諸蕃(渡来および帰化系氏族)のうち約3分の1の多数を占める「秦氏」の項によれば、中国・秦から来たとする意見があるが、秦氏の始祖である弓月君は百済から到来した到来人であるという記録もあり、苗字を秦氏に変えた百済人とする意見もある。雄略天皇の頃には、当時の国の内外の事情から、多数の渡来人があったことは事実で、とりわけ秦氏族は絹織物の技に秀でており、後の律令国家建設のために大いに役立った。朝廷によって厚遇されていたことがうかがわれるのも、以上の技能を高く買われてのことだと考えられている。彼らは畿内の豪族として専門職の地位を与えられていた。 伏見稲荷の創建 深草の秦氏族は、和銅4年(711年)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして伊奈利社(現・伏見稲荷大社)を建てた。深草の秦氏族は系譜の上で見る限り、太秦の秦氏族、すなわち松尾大社を祀った秦都理《はたのとり》の弟が、稲荷社を創建した秦伊呂巨(具)となっており、いわば分家と考えられていたようである。『山城国風土記』逸文には、伊奈利社の縁起として次のような話を載せる。秦氏の祖先である伊呂具秦公(いろぐの はたの きみ)は、富裕に驕って餅を的にした。するとその餅が白い鳥に化して山頂へ飛び去った。そこに稲が生ったので(伊弥奈利生ひき)、それが社の名となった。伊呂具の子孫は、先祖の過去の過ちを悔いて、社の木を根ごと抜いて屋敷に植え、それを祀ったという。また、稲生り(いねなり)が転じて「イナリ」となり「稲荷」の字が宛てられた。都が平安京に遷されると、この地を基盤としていた秦氏が政治的な力を持ち、それにより稲荷神が広く信仰されるようになった。さらに、東寺建造の際に秦氏が稲荷山から木材を提供したことで、稲荷神は東寺の守護神とみなされるようになった。『二十二社本縁』では空海が稲荷神と直接交渉して守護神になってもらったと書かれている。東寺では、真言密教における荼枳尼天(だきにてん、インドの女神ダーキニー)に稲荷神を習合させ、真言宗が全国に布教されるとともに、荼枳尼天の概念も含んだ状態の稲荷信仰が全国に広まることとなった。荼枳尼天は人の心臓を食らう夜叉神で、平安時代後期頃からその本体が狐の霊であるとされるようになった。この荼枳尼天との習合や、中国における妖術を使う狐のイメージの影響により、稲荷神の使いの狐の祟り神としての側面が強くなったといわれる。 正一位稲荷大明神 奈良時代中期以降、朝廷から諸臣に授けられて位階が、神にも授与されるようになった。神階は、主に遷都・行幸の際や、天変地異や疫病蔓延を鎮める臨時の祈願に際して、特に霊験あらたかな神々に朝廷から授けられた。これは、それぞれの神々に授位・進階されるもので、同じ神社に祀られているご祭神でも神々より位階が異なることもある。稲荷神社については、『類聚国史』(るいじゅうこくし)の天長4年(827年)正月の条に、淳和天皇より「従五位下」を授けられたことが見られる。その後も位階を重ね、天慶5年(942年)に諸神に対する授位で「正一位」に叙せられた。この神階は京都伏見の稲荷神社(現・伏見稲荷大社)の稲荷神に授けられたもので、後世になると他社への勧請に際して、本社が同位の神階(正一位)を授与するようになり、正一位稲荷大明神という尊称が一般化した。明治以降、神階授与の制度は廃止されたが、現在でも全国の稲荷神社で正一位と冠した奉納の幟旗を目にするのは、稲荷神に対する篤い信仰によるものといえる。 中世以降 稲の神であることから食物神の宇迦之御魂神と同一視され、後に他の食物神も習合した。中世以降、工業・商業が盛んになってくると、稲荷神は農業神から工業神・商業神・屋敷神など福徳開運の万能の神とみなされるようになり、勧請の方法が容易な申請方式となったため、農村だけでなく町家や武家にも盛んに勧請されるようになった。江戸時代には芝居の神としても敬われるようになり、芝居小屋の楽屋裏には必ず稲荷明神の祭壇が設けられるようになった。明治政府による神仏分離の際、多くの稲荷社は宇迦之御魂神などの神話に登場する神を祀る神社になったが、一部は荼枳尼天を本尊とする寺になった。 信仰 稲荷信仰は様々である。神道的稲荷で祭祀者が神職で宇迦之御魂神・保食神などを祀る神社によるもの、仏教的稲荷で祭祀者が僧侶・修験者で、寺の鎮守堂で荼枳尼天を祭祀しているもの、民俗的稲荷で祭祀者が土地所有者や氏子・講員などで、狐神・山の神・水神・福神・御霊神などとして信仰されているものがある。 初午祭 稲荷神社では、2月(新暦・旧暦)最初の午の日を初午とし「初午祭」が行われる。これは伏見稲荷神社の祭神が降りたのが和銅4年(711年)2月の初午だったからと言われる。行灯に地口とそれに合わせた絵を描いた「地口行灯」を街頭に飾ることもある。 稲荷社の広がり 日本の神社の内で稲荷神社は、2,970社(主祭神として)、32,000社(境内社・合祀など全ての分祀社)を数え、屋敷神として個人や企業などに祀られているものや、山野や路地の小祠まで入れると稲荷神を祀る社はさらに膨大な数にのぼる。稲荷神社は日本全国に点在するが、その中でも東日本に多く信仰されている。これは江戸時代、稲荷信仰が江戸を中心として流行したためで、江戸の町の至る所で見かけられるものとして「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」とまで言われるようになった。例えば、武蔵府中においては、明治時代初期に市内に6ヶ所で稲荷神社が祀られており、市内の家々の屋敷神は566件にも上るなど、多摩地域においては顕著である。 その他 ・構造様式分類として稲荷鳥居(いなりとりい)があり、複数の鳥居を連ね、祈りと感謝の念を表した。 ・広島市中区円隆寺境内の稲荷大明神(とうかだいみょうじん、とうかさん)や福岡県大牟田市の稲荷神社(とうか神社)の様にいなりと読まない場合もある。 ・和歌山県有田市(旧・糸我町)の「糸我稲荷神社」を日本最初・最古の稲荷神社とする説がある。文化7年(1810)当時の神官、林周防が寺社奉行に報告した「糸鹿社由緒」によると、創建は「37代孝徳天皇白雉3年壬子の春、社地を正南森に移し、糸鹿社と申す」とあり、伏見稲荷神社の創建より約60年も前に遡る。 ・出雲国風土記の飯成(いいなし)郷(現:島根県安来市)の説話では大国魂命の降臨譚が述べられており、倉稲魂命と共に意多伎神社に祀られている。 ・「稲荷」と付く地名は日本には多くある。 ・稲荷木(とうかぎ)(稲架掛け(はさかけ)の木)と呼ぶ町が千葉県市川市にある。 ・稲荷木落(いなりぎおとし):1850年頃(嘉永年間)に出来た中川水系の排水路。埼玉県加須市から、久喜市新井と同市八甫二丁目の境界で、中川の左岸へ合流する。 ・とう火坂(とうかざか):埼玉県和光市にある坂。これは坂下の稲荷神社(下井戸稲荷神社、新倉氷川八幡神社の境外社)に由来するといわれる。 総称 日本三大稲荷 以下の神社仏閣14社寺は日本三大稲荷のひとつに挙げられている。どの寺社を日本三大稲荷としているか丸印で示している。「自」は自社を示す。他の寺社から日本三大稲荷とされている寺社名は薄い赤色、他の寺社から日本五大稲荷とされている寺社名は薄い青色とした。一般的には伏見稲荷大社、豊川稲荷(円福山豊川閣妙厳寺)、笠間稲荷神社、祐徳稲荷神社の4社寺が挙げられることが多いが、伏見稲荷大社によれば「日本三大稲荷神社」について自社以外の2社は様々な説があって特定できないとしている。通常、総本宮である伏見稲荷大社は必ず挙げられ、次いで仏教系の豊川稲荷が含まれることが多く、この2社寺はまれに日本二大稲荷とも呼ばれる。3社寺目は地域によって異なるのが普通であり、例えば東北では竹駒神社、関東では笠間稲荷神社、中国では最上稲荷(最上稲荷山妙教寺)、中国でも島根県では太皷谷稲成神社、九州では祐徳稲荷神社が挙げられることが多い。名称には揺れがあり、例えば伏見稲荷大社では「日本三大稲荷神社」、竹駒神社や瓢箪山稲荷神社では「日本三稲荷」、源九郎稲荷神社では「日本三社稲荷」と称している。「日本三大稲荷神社」とした場合は当然ながら寺院である豊川稲荷と最上稲荷の2寺が含まれなくなり、神社である祐徳稲荷神社や笠間稲荷神社などが挙げられることが多くなる。なお、必ずしも自称していることを示しているわけではない。笠間稲荷神社、祐徳稲荷神社、竹駒神社、最上稲荷、瓢箪山稲荷神社、源九郎稲荷神社などは積極的に称しているが、他は称していても消極的であったり否定していたりする場合もある。例えば、千代保稲荷神社は自社が日本三大稲荷であることを否定している。(Wikipediaより、) なお、総本宮の伏見稲荷大社は、稲荷大神 宇迦之御魂大神ほか4柱の総称で、 宇迦之御魂大神 - 下社(中央座)、佐田彦大神- 中社(北座)、大宮能売大神 - 上社(南座)、田中大神- 下社摂社(最北座)、四大神- 中社摂社(最南座) こう考えると総本宮でも宇迦之御魂神を含めて5柱、更に稲荷山を含めると複数お祀りされており、正直 先ほど述べた通り女神、男神どちらもお祀りされててもおかしくありませんね。それらに共通するのは穀物・食物の神であり、稲荷神が稲の神であることから同一視されて他の食物神も習合し、今の形になりました。主に女性の神様や老人の神様なのはおそらく、縄文時代後期や弥生時代初期には稲作と狩りと両方していて、主に稲作は残された女性や子供やお年寄りでやることが多かったように思えます、そのうち稲作が主で大規模になりそんな事はだんだんなくなりましたが。それ故に貧富の差が生まれ、周辺の国々と争うことが多くなり、多くの男性は警備や時には戦に駆り出され、やはり、稲作は残された女性や子供や老人等でやる事も多かったのかもしれません。後に渡来人の秦氏が神様を持ち込み、それが、稲作中心の社会には丁度良かったように思えます。 なお、「憑き筋」はいわゆる狐憑きや犬神(一部地域では)ですね、いわゆる呪術の類、今では単に精神疾患や狂犬病類等と思われますが…だから、稲荷神社の怖さがここににもと思います、実はこれらは地域のお金持ちの家に対する農民たちの激しい憎悪から来たものでした。その事から、裕福な家の人々はあえて自衛の為にそう言う事を作り出しという説もあるようです、貧富の差が現在より遥かに酷かったですから、そもそも、自閉症とか精神疾患等の子供をある程度まで育てられたのは裕福な家でしたし。しかし、狐憑きと犬神は発想が似ているのに、稲荷神社に犬を連れてきていけない、お狐様に呪われるとされています。どうやら、狐が犬が苦手と言う事から来ているようです。おそらく、鳥居に粗相して腐らせて倒れるために防衛しているのかなと思います。ま、マナーの悪い飼い主も居ますし、汚されてもすべて管理側修繕しないといけないからたまらない、最初からお狐様に呪われる言った方が良いのかもしれません、それでもマナーを守らない不届き者はいますが。ところで、最近多い外国人の粗相に対してもやはりお狐様に呪われるのでしょうか? 香椎宮 末社稲荷神社 ご祭神:保食大神 更に、これは稲荷神の関連があるかのか分かりませんが、『君の名は。』という映画に「口噛み酒」が登場しました、米を口のなかで噛み、それを吐き出してできるお酒の事で、アミラーゼがデンプンを糖化させ放置して酵母がアルコール発酵させてお酒ができます、若い美女に噛ませていた事が風土記等に書かれています。そりゃまあ、物理的考えてそうなるね。『逃げ若』はセンパンや…???後に、現在まで続く米や大豆、麦などの穀物にカビの1種である麹菌を繁殖させ日本酒等の酒を作りましたが、どうも、八岐大蛇伝説では米以外の穀物と考えられますが、麹菌を繁殖させることで作った様です。少人数で大量には出来ないと思うし、ある事が原因でも。酒と言えば、稲荷神と同一視された豊受大神も酒造りが上手かったですし、稲荷神とやはり同一視の保食神(大宜都比売)はとある理由から須佐之男命、あるいは月読命に56されています、それの原因が「口噛み酒」かもしれない。だからこそ、その手前 現在まで続く酒造法を取り入れたかもしれません、それが当初は乙女が作っていたかもしれませんし。なお、一般的に世間出回る”ツクヨミ”は菊理媛神か予母都志許売と然る方と月読様が仰っておられました、”ツク”とは月の古い呼び方ですが、”憑く”とも憑黄泉とも捉えられますね、何も今更ですが、『推しの子』もうすぐ最終回ですが、逆張りの結果 彼女ツクヨミが本来の亡くなった人を見送るという役割が出たらしいですし。『逃げ若』とかの戦乱の世、いや、戦後とかも、4はずっと身近にありました、だからそういう役割神様が多かったの事実、※余談ではありますが、個人的に『逃げ若』の結城宗広さん最後までブレなくて狂ってたし好きだった、味方には忠義の良い人だ、敵は嫌やけど…流石に書かれていた事は極端ですが、ある程度は的を得ているのではないでしょうか、70歳前後まで活躍して戦死(史実は病死?)というから、戦乱の世には強さがSSRバクジジイが居るものだ、今もスポーツ界に一部はいるけれども、次は久し振りに目玉のイケオジも登場しましたし、丁度よかった。なお、酒造りは女性が管理を任されて国が成熟したと共に、やがては食物全般を管理する様なったのかもしれませんね。なお、稲荷神とはされてはいませんが、穀物の神様である奇稲田姫、八岐大蛇に捧げられた美女やしな、神使いは狐の前は蛇だった、奇稲田姫はその名前から完全に稲の精霊で、足名椎と手名椎という老夫婦によって大切に育てられた、彼女は子供であり、子供の稲だと考えると納得がいきます、当初は子供達、少女にお酒の原料を造らせていたかもしれませんし、それだけ重要な役割を担っていたと思います、今では到底考えられませんが。 宮地嶽神社 二番社・稲荷神社 稲荷神社とは?お稲荷さんは何の神様?由来とご利益を解説 稲荷神社とは、日本の各地に見られる神社で、赤い鳥居を構え、境内に狛狐があることでも知られています。その数は3万社とも4万社とも言われており、江戸時代にはその多さから「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」と言われていたほどです。お稲荷様として古くから多くの日本人に慕われてきたお稲荷様。この記事では、稲荷神社の由来やご利益、狐との関係などを詳しくご紹介します。 お稲荷さん(稲荷神)は渡来系の秦氏が奉じた神様 お稲荷様は、その名の通り稲に関する神様です。そもそも稲とは「命の根」を意味します。その稲が生る=いなり、ということから、お稲荷様と名づけられました。この神様は稲の豊作にご利益があると崇敬されていますが、稲作自体が大陸から伝わって来た技術です。そのため、お稲荷様のルーツも、大陸に由来しているとされます。もともとは渡来系の部族である秦氏が氏神として奉る神様でしたが、それが日本に伝わって土着の神道と融合し、今の形となったといわれています。 稲荷神社・お稲荷さんは日本で1300年の歴史を持つ 本の歴史上、初めてお稲荷様が登場するのは西暦711年の2月。『山城国風土記(やましろのくにふどき)』に、秦伊呂具がお餅で作った的に弓を当てたところ、そこに宿っていた神霊がお餅を白鳥に変化させ、近くの伊奈利山に飛び、降り立った所に稲が実ったという「もちと白鳥の伝説」が残っています。秦氏はこの神霊を祀るために、山に神社を創建し、それが今につながる稲荷神社の総本社、伏見稲荷大社の由来です。この風土記には、「伊奈利(いなり)」と書かれていますが、892年に菅原道真によって編纂された史書には「稲荷」という文字が記されています。このほか「稲成」「稲生」と書いて「いなり」と読む神社もあります。伏見稲荷大社では、五穀を司るとされる宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)を主な祭神としています。それ以外にも、佐田彦大神(さたひこのおおかみ)、大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)、田中大神(たなかのおおかみ)、四大神(しのおおかみ)を祀っており、合わせて「五柱の神」と称されています。全国にある稲荷神社は3万社とも4万社ともいわれていますが、その多くが伏見稲荷大社からこれらの神様が勧請(かんじょう)されているのです。 仏教系の稲荷神社・お稲荷さんも存在する 全国のお稲荷様は、神道系と仏教系に大きく分けることができます。神道系は伏見稲荷大社をはじめ、茨城県の笠間稲荷神社、佐賀県の祐徳稲荷神社などがあります。一方、仏教系のお稲荷様は、愛知県の豊川稲荷(圓福山妙厳寺)や、岡山県の最上稲荷(最上稲荷山妙教寺)があります。豊川稲荷では、豐川吒枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)という神様を祀っています。吒枳尼眞天はもともとはインドの鬼神でしたが、仏教に帰依して、仏法を守る神様になったと言われています。この吒枳尼眞天が稲穂を担って白い狐にまたがっていることから、豊川稲荷として広まったそうです。最上稲荷では、本尊に左肩に稲を担って、右手に鎌を持ち、白い狐に乗った姿であらわされた、最上位経王大菩薩を祀っています。 稲荷神社・お稲荷さんが庶民に広まったのは江戸時代 お稲荷様の信仰が大きく広まったのは、江戸時代です。それまでは穀物の豊作を願って祀る神様でしたが、幕府の改革などで名高い田沼意次が自分の屋敷にお社を祀ったことで運が開けたという評判が広まったといわれています。そこから、ほかの武士たちもそれを真似て祀りはじめました。さらに、庶民である商人たちもそれにならい、商売繁盛や家内安全の神様として信仰の対象としたのです。木造建築が密集した江戸では火事も多かったため、家屋やお店を、そうした災害から守ってくれる神様としても祀られました。これらの様子が参勤交代で江戸に来ていた各地の大名の目に留まり、稲荷信仰は全国に広がっていったのです。そのうえ、伏見稲荷大社の稲荷大明神は、以前から朝廷より神階のひとつである正一位の位を受けていました。その神霊を勧請する各地の稲荷神社もまた、同じ格式を得られることが普及の後押しになったと考えられています。 お稲荷さん(稲荷神)は狐の姿ではない お稲荷様には狐の像がつきものですが、祭神は狐の姿をしていません。狐は稲荷神の御遣いとなる神使なのです。狐には昔から人の寿命や作物の収穫量などの未来が分かり、人の精気を奪う、あるいは人を化かすなど、神秘的な動物として扱われてきました。たれ下がった稲穂が尻尾に似ていることや、米を食べるネズミを退治すること、また、稲荷神社の祭神である宇迦之御魂大神の別名が御饌津神(みけつかみ)と言い、これが漢字で「三狐神」と書けることなど、お稲荷様の御遣いが狐となった理由には、諸説あります。また、狐は春になると山から人里に降りてきますが、秋になるとまた山に戻ります。同様にお稲荷様も田植えの時期に現れて、秋の収穫が終わると山に戻って行くと言われ、その類似性から、お稲荷様と狐を結びつけられました。いずれにしても、狐は昔から人間の暮らしや稲作と関わりが深く、信仰の対象でもあったため、お稲荷様の御遣いに選ばれたのでしょう。 お稲荷さん(稲荷神)のご利益とは お稲荷様のもたらすご利益は、歴史の流れとともに非常に幅広いものとなりました。もともとの言われである五穀豊穣や豊作祈願に加え、現在では祀る人や場所により、さまざまなご利益が得られると言われています。中でも代表的なものが商売繁盛です。伏見稲荷大社では、鳥居に多くの企業の名前が刻まれており、今でもデパートなどの商業施設の屋上にある神社は、ほとんどが稲荷神社です。さらに、芸事や縁結び、衣食住や家内安全、所願成就など、多くのお願い事が叶うとされています。また、神社によって境内にある狛狐が咥えているものに違いがあり、その種類によって授かるご利益も異なります。例えば、巻き物を咥えている場合は知恵や学業を、丸い珠の場合は五穀豊穣を、稲穂やカギは稲そのものや稲倉のカギを表すため、稲の豊作にご利益があります。 稲荷神社・お稲荷さんは日本中で親しまれている神様 お稲荷様は日本中で親しまれている神様ですが、あらためて由来を辿っていくと、その魅力は尽きません。五穀豊穣はもちろん、仕事や家族に関することでもお願いできます。全国にたくさんあって、いろいろなお願いを叶えてくれる、いつでも頼れる身近な神様として信仰を集めています。(いい葬儀より、) 赤い鳥居の元こそ稲荷神社で、明神鳥居と呼ばれる朱色の鳥居ですね、なお、伊勢神宮等は神明鳥居の白木の鳥居です。赤色は稲作に必要とされる陽光や温かさを運んでくると考えられおり、まさに稲荷神社の鳥居。赤色は魔除けの色と考えられていました、古くから日本では神社仏閣や宮殿などに用いられ。今では稲荷神社以外でも赤い鳥居を持つ神社は多く見られる様になりました、江戸時代以降は稲荷神社の神社の勧請を盛んに行い、各地で赤色の鳥居が見られるようになりました。赤色の原料は丹(水銀)で木材の防腐剤としての役割も担っていました。 それから、「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」いずれも江戸に多かったものとされているもの、ところで、日本の最もある神社の1位が稲荷神で、2位が八幡神、稲荷神社は江戸時代以降の勧請によるもの、ざっくり言うと、稲荷神は商売の神で、八幡神が武士の神、だからどちらも全国に多い。八幡神は多くの武将が戦勝祈願をしていましたが、太平の世になり商人が増えてやがて商売繁盛の稲荷神へ置き換りました。例えば、遊郭内にも稲荷神社がありましたし、遊郭は穢れとされた為に祀られる神社には限りがありましたし、その点、親しみのある稲荷神社は良しとされました、商売繁盛の建前もあるし…しかし、一体彼女らはどんなお願いをした事か。なお、「伊勢屋」は、伊勢(三重県)出身の商家のこと。江戸時代に幕藩体制が整ってくると商人が増え。伊勢、三河(愛知県)、近江(滋賀県)、京、堺といった西国の商人が多く、出身地を屋号としたため、江戸に伊勢屋、三河屋、近江屋といった看板が多く立ち並ぶことになりました、稲荷神は商工業が発展すると商業の神も担って全国的に広く信仰されるようになり、やはり、江戸中に朱色の鳥居や祠が建てられました。これも、西国の商人がもたらしものでしょう、商売繫盛の神として多く勧請しましたから。日本二大稲荷は両方西国にありますし、西国の商人同士がお互いに競って建ててもおかしくありません、だから現在に至るまで稲荷神は多いと思われます。 五穀豊穣の神様で商売繁盛のご利益あり 宇迦之御魂神をはじめとする稲荷大神ついてでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年11月05日 22時51分06秒
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