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2021年04月29日
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​鏡月 甘くないレモンサワー​
こういう方が好きです、
季節の生菓子です、4月~5月は端午の節句
端午の節句とは、男の子のすこやかな成長と健康を願って、お祝いをする日です。
端午とは、「最初の午(うま)の日」といった意味。「端」には、最初や、始めという意味があります。
中国の古い暦では、十二支の寅(とら)から1月が始まります。午の月は5月。午の月の最初の午の日は、5と5が重なる日です。
「菖蒲の節句=尚武(しょうぶ)の節句」とされ、「男の子のお祭り」と意識されるようになりました。特に武士の間で盛んに祝われたようです。
今月の月ですが、27日は残念ながら見られませんでしたが。なかなか趣のあるものが撮影出来ました。

​​ゴルシちゃんだぞー!お゛う゛っ゛、という何かぽい、
ゴールデンウイークは​別名ゴルシウィーク​、そう、ぱかチューぶ復活!ゴルシちゃんが主役でっす。​


​第10回 神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、若御毛沼命)について、​
前回、​9回目は出雲の神様 少彦名命​について紹介しました、10回目は神倭伊波礼毘古命、そう、初代天皇 神武天皇です、本日29日は昭和の日、昭和天皇の誕生日でした、そこで今回は神倭伊波礼毘古命こと神武天皇について紹介させていただきます、ジョジョでいうと第三部の主人公に関わらず、存在の有無が認められていない為に神功皇后と共にあまり語れていません、なお、神武天皇という名は八世紀以降の諡号(しごう)つまり、おくり名とされており、今回その両方でご紹介させて頂きます事をご了承下さい。それから​第2回 級長津彦命と級長戸辺命​、​第4回​の天目一箇命​を更新しましたのでよろしくお願いします。

※この写真は神武天皇とは関係ありません、

GameLite
・​神武東征っていつ?理由、目的とルート&神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)の年齢、時代、西暦何年? ゆっくり解説日本史
こちらが一番わかりやすいかも。金鵄と八咫烏は違うのを初めて知りました。どの書物もSNSも混同している事が多いし、どちらも神武東征の登場しました。道案内が八咫烏、戦闘を有利に進めたのが金鵄、あくまでも個人の考えですが。
炭治郎じゃなかった、イワレビコはジャンプの主人公みたい。いきなりラスボス鬼舞辻無惨に会っているし、よもやよもやか煉獄さんの様な兄貴も亡くなってる。鬼滅の刃かダイの大冒険、あるいはドラゴンボール、本当は22~23歳だったのかもしれません。何年か滞在、その間に鱗滝さんか亀仙人と修行を…てなわけないか。

神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、若御毛沼命)とは、​
初代天皇、誕生す!
​日向に天降ったニニギより、ホオリ、ウガヤフキアエズの二代を経て誕生したカムヤマトイワレビコは、兄イセツとともに天下を治めるのにふさわしい地を求めて東征の旅に出発した。しかし、天孫の系譜といえども、この征旅には多くの犠牲を必要とした。瀬戸内海を通過し、順調に機内に入ったものの、豪族ナガスネヒコの抵抗に遭い、イセツが命を落としてしまう。さらに熊野に至って、一行は壊滅の危機にも直面している。それでもアマテラスら天津神の助けによって勢いを取り戻したイワレビコ一行は、熊野から吉野へ至る道のりを踏破しながら敵対勢力を打破つていった。機内を平定し終えたイワレビコは初代・神武天皇として即位し、天皇家の祖となった。​
​苦戦の連続だった東征​
現代に至るまで連綿と続いてきた天皇の系譜。その初代にあたるのが神武天皇である。天孫ニニギの孫ウガヤフキアエズの四男として生まれ、名を「豊御毛沼命」、または「神倭伊波礼毘古命」という。「カムヤマト」は「神聖な大和」、「イワレ」は「謂われ」で、「神聖な大和の由来を表す男」の意となり、この名自体が初代天皇を表している。
そのイワレビコは、『古事記』によれば、天下を治めるための地を求め、長兄イセツとともに日向国高千穂から東征の旅に出発した。豊国の宇佐にたどり着き逗留し、次は東に向かい、筑紫の岡田宮に1年住んだ後、安芸国(広島県)の多祁理宮に7年、吉備(岡山県)の高島宮に8年留まる、当初は順調に進軍し東征軍であったが、浪速(大阪府)の白肩津に至った際には、土地の豪族ナガスネヒコ立ち塞がって妨害。この激戦でイセツは負傷し、東征軍は撤退を余儀なくされている。ここでイセツは太陽に向かって、つまり、西から東へ進軍したのがよくないとして、熊野へ迂回を選ぶも、途中で力尽きた。『日本書紀』によれば、熊野に至ったことろで暴風雨に絶望した次兄のイナヒと三兄のミヌケまで海中に身と投じてしまう。
更に熊野の神(熊)の毒気にあたり、東征軍は壊滅の危機を迎えるが、ここで天津神の助けが入った。タケミガヅチが剣を授けてイワレビコを毒気より開放し、タケミカヅチが下した剣によって危機を脱したイワレビコ一行であったが、その先吉野へ至る道のりにも荒ぶる神が多くいるため、アマテラスとタカムスビは先導役を遣わすことにした。それが八咫烏という巨大な烏である。古くは日の出とともに飛来し、日の入りと共に森へ帰る習性から太陽神の使いと考えられ、敬われていた。タカムスビが道案内の八咫烏を遣わして大和(奈良県)を道を先導させたのである。これを受けて、土地の首長たちの服従を受け入れながらイワレビコ一行は吉野を踏破。エウシカや土蜘蛛のヤソタケルなどを打ち破って大和入りを果たす。最後に、ナガスネヒコの主・ニギハヤヒが宝物を進呈して服従し、大和平定が成し遂げられた。そして、イワレビコは橿原宮で即位したのである。
​神武天皇の意外な正体​
以上が神武東征伝説であるが、以前よりこの話は創作か、史実なのか議論の的となってきた。なかでも神武天皇にモデルがいたとう説である。まず、第十代崇神天皇をモデルとする説。崇神天皇は三世紀末~四世紀にかけての人物とされるが、『日本書紀』では崇神天皇も神武天皇と同じく「ハツクニハラス天皇(初めて国を治めるになった天皇)」と称されている。さらに、この崇神天皇こそが奈良県桜井市の巻向の地に発祥したヤマト政権における事実上の初代天皇とされているのだ。
次に注目されるのが、記紀を編纂を命じた天武天皇をモデルとする説。六七二年に勃発した壬申の乱において、大海人皇子(天武天皇)が吉野より東の伊勢へ回り、太陽を拝んでその力を借りてから北上。琵琶湖北方の野上より東から西へ進軍した。これは、太陽を背にして進軍した東征軍の動きと共通する。しかし、東征軍が熊野以降、大和を平定するまでの難儀は、大海人皇子の一行が吉野から美濃へ逃れる際に、険しい吉野山中で難儀する姿を彷彿させる。
更に古代オリエントに帝国を築いた、古代ギリシャのアレクサンダー大王がモデルと言うユニークな説もある。アレクサンダー大王が東方遠征と神武天皇のには、カラスに誘導された話など共通部分が多くみられるのだという。いずれか正しい説か今後の研究を待たなければならない。(「日本神話」の謎を楽しむ本より、)
個人的に好きな神様のニギハヤヒ神について少し触れようと思いましたが、流石に主役級、この分量なので今回はやめておきます。神倭伊波礼毘古命(神武天皇)の次は欠史八代ですから…
神武天皇=天武天皇、やっぱり、天下分け目の壬申の乱、前に紹介した神功皇后のモデルが天武天皇の母 斉明天皇、あるいは妻である持統天皇、斉明天皇は大海人皇子だった息子と共に百済の呼びかけにより援軍として朝鮮半島への軍事介入、筑紫の朝倉宮に遷幸し戦争に備えた時の661年に崩御しています。個人的に彼女こそ神功皇后のモデルと思います。…という事は、神武天皇が天武天皇というのはあながち間違いではないでしょう、他に色々な物語を集め話を盛った考えるのが筋、だから、アレクサンダー大王の東方遠征の話も、元々、天武天皇は大三国志ファン、つか、オタク、色々な書物を読んでいてもおかしくない、だからジャンプの主人公みたくになっている。

※この写真は神武天皇とは関係ありません、

神武天皇 ​
日向から東征した伝説的なヒーロー
神武天皇は記紀に初代手能として伝えられ、高天原からの天つ神の子として地様に降臨したホノニニギ(番能邇邇芸命)の曾孫とされる。
まず、記紀にしたがって、神武伝説をみてみよう。皇室の先祖は高天原から日向の高千穂に降臨し、そこに宮を造り、しばらく過ごした。やがて神武は、兄のイセツ(五瀬命)、イナイ(稲飯命)などと協議し、東征のために軍勢をひきいて日向を出発する。
といって、急いで東に向かったわけではない。最初に豊の国の宇沙(宇佐)で、土地の神様の宴を受ける。さらに竺紫(筑紫)の岡田宮に1年、阿岐(安芸)の多祁理宮で七年、吉備の高島宮で八年と、各地で腰を落ち着けながら少しづつ移動していく。
その後、瀬戸内海を渡り、白肩の津に上陸、大和へ侵攻しようとした。ところが、豪族のナガスネヒコ(長髄彦)の迎撃にあい、兄のイセツが負傷する。そので、神武は方向転換し熊野から来たね進むが、途中で大きな熊が現れ、毒気にあてられ失神してしまった。しかし、天つ神に助けられ、天つ神が派遣した八咫烏に先導されて、熊野から吉野の山中を超え、大和へ出ることができた。ここでエウカシ、オトカシらと戦い、さらに土蜘蛛(土着民)のヤソタケル(八十健)、ナガスネヒコ、エキシ(兄磯城)、オトキシ(弟磯城)らを破って制圧し、神武は大和を平定する。
こうして神武は、橿原を都と定め、即位した。同時に、三輪のオオモノヌシ(大物主神)の娘イスケヨリヒメ(伊須気余理姫)を皇后としたのである。これを「神武東征」という。
ところで、神武と言う名は八世紀後半に命名された諡号(おくり名)で、記紀にはワケミケヌ(若御毛沼命)、カムヤマトイワレビコ(神倭伊波礼毘古命)、ハツクニシラシシズメラミコト(始馭天上之天皇)など、さまざなに記されている。
このうち、ワケミケヌは穀霊的性格を示し、カムヤマトイワレビコは神聖な大和の国のいわれを負っている男、ハツクニシラシシズメラミコトは天下を初めて治定した天皇を表す。こうしたころから、神武伝説は古代において、穀霊的な存在がどのようにして人間の世界を開き、初代君主となったかを語った英雄伝説と考えられている。
『日本書紀』によれば、神武天皇は百二十七歳生きたというが、これはかんがえられないことで、史実をよそおった伝説を暗に示しるといえよう。
それに、神武天皇の即位が西暦になおすと、紀元前六六〇年の元旦だったとしているが、その頃の日本は考古学上では縄文式文化の時代(現在研究では弥生時代、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃まで、これは書物が少し古い。参考書物は1991年、)であり、原始社会の段階だ。したがってどのようなかたちでも国家というものは存在しなかった(三内丸山遺跡、縄文時代最大の遺跡とされ、5900年前~4200年前の縄文時代の集落跡、明らかにこの頃からクニが存在しているよう、本格的発掘は1992年~でした)。
『古事記』が完成したのは和同五年(七一二)、『日本書紀』は養老四年(七二〇)である。当時の時代背景を考えれば、神武天皇は大和朝廷が権威を示すためにつくった架空の初代天皇と考えられる。ナガスネヒコとの戦い、八咫烏の話、あるいは多くの戦いを経て大和を征服する話など、いずれも各地の豪族に伝わっていた神異譚、地方の伝説などが東征譚と結びつき、神武伝説としてまとめられたわけだ。
では、なぜこのような東征神話が生まれたのか。神武が九州の日向を出発し、東をめざしたて大和の都を造ったとされるが、この日向については、固有名詞の日向国ではなく、「朝日夕日の照らす聖地」という意味だ、とする説もある。
しかし、日向を出発地としたのは、大陸の新文化は西方から、とくに九州を通じて移入されることが多かった、という事実を考えると、必然的なことからもしれないが。
東征については、九州にあった邪馬台国が東遷したとか、大陸から渡来した騎馬民族が九州を経て大和に侵攻した史実の伝承であるなどさまざまあるが、いずれも確かでなない。
東征そのものは事実と思われるが、高度な文化を持った北九州の政治勢力が大和に移ったのが、さまざまな伝承を取り入れ、神武伝説として形づくられた、といえそうだ。(神話伝説のヒーロー 中江克己より、)​​
中江克己氏、北海道出身の作家ですね、最近、北海道大学と自然の博物館などの研究チームはが淡路島で発見された恐竜を学名を「ヤマトサウルス・イザナギイ」と命名して話題になりました。淡路島が「国生み神話」の舞台であることにちなんで、神話に登場する神「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」から命名したとか、北海道出身の方は古代史研究家が多い気がするのですが、気のせいでしょうか。
騎馬民族風で実は近年では一時だけの流行りという研究が、要は、日本人は古来から熱しやすく冷めやすい、よく言えばしつこくない。韓国の南部に日本領を置いていた為にその情報が入って来たようです。ちなみに、​手塚治虫氏の火の鳥黎明編では騎馬民族説を取り入れていたとか​、彼の作家性がそうさせたのでしょう。
しかし、神武東征で思う事、大和に入るまで根回しをしなかったのでしょうか?
実際の年数は半分位にしても、移動に何年もかけているのにも関わらず抜けているのはわざとでしょうか、滞在先でも神話がありますが、至って平和でした。昔は神倭伊波礼毘古命(神武天皇)は存在しないと思いましたが、似たようなモデルは存在したのでは?…と最近思うようになりました、文字通り神武天皇と言う名では無いですが。その名は天照大御神と同じ後世に作られた事は間違いありませんが。
※この写真は神武天皇とは関係ありません、 

神武天皇には角あり鱗があった?
江戸時代の「禁書目録」のトップに挙げられていたものに『旧事本紀大成経』という奇々怪々な史書がある。いわゆる神代文字の種子本ではないかなどと研究者にも言われているものだ。
その巻十四「神武天皇」に出てくる神武天皇のイメージはまさに圧巻である。すなわち「神武天皇諱ハ神日本磐余彦尊、神武天皇ニ諡ス。即チ是ノ尊ハ彦波瀲武鸕鶿草と葺不合尊ノ第四皇子也、母玉依姫海童少女也」ここまでは記紀と大差ない。
そして、天皇が幼少より神語、神気、神性、神徳を備えた人物で、夷狄を屈服させる力をもっていたと続く。すなわち「身長ハ一丈五寸、胸囲ハ八十五周」、そして、「頭ニ二十三寸ノ両角有リ」さらに「尾ニ竜尾有リ、長サ尺四寸、尾ノ背上大鱗七十三有リ」と続く。これではゴジラの子供に角を生やしたようなものだ。いかにも先住民が抵抗してもかなうはずがない。
だが、尻尾や鱗はともかくとして、頭に二本の角があるという描写に注目したい。これはユーラシア大陸から日本列島にかけて伝わる「牛頭天王」のイメージである。牛頭天王は、日本ではスサノオノミコトと同一視されているが、あちらでは世界の制服者アレキサンダーをさす。つまり、この英雄は双角のカブトをかぶって陣頭に立っていたからだ。ただし、古代エジプトのアモン神には日本の角があるが、これは角ではなくて二本の麦の穂だとされている。
そこから神武天皇=アレキサンダー説も出てくることになる。つまり、アレキサンダーはペルシャ帝国のダリウス三世と戦ったとき、砂漠の熱風と砂塵に襲われ方向を失った。そのとき一羽の霊鳥が飛来して群を導いたという。これは神武東征の金の鵄の説話とほぼ同じだ。この建国の英雄が霊鳥に導かれて勝利するというモチーフは、他にもモンゴル、トルコ、ウラルなどの諸民族にもあるという。また、ハンガリーにもあるようだ。それからの建国神話のルーツは、双角王アレキサンダーにあるのではないか。(雑学 古代日本の謎と不思議より、)
禁書というのがミソですね、ちょっと変わったものを載せました。淡路島で発見された恐竜ヤマトサウルス・イザナギイですか?
本居宣長の古事記伝の後からこういった類の書物が大量に登場した様で、昔からこういうのが好きだったのですね日本人は、それに、神武天皇と呼ばれたのは八世紀後半、偽書、あるいは禁書と呼ばれても仕方が無いですが。アレクサンダー大王がどうのはあると思いますが。

第10回 神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、若御毛沼命)についてでした。





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最終更新日  2024年01月20日 20時36分59秒
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