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2021年07月31日
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ルサルカ 厚焼きフライパンケーキ
厚焼きフライパンケーキ
1,760円(税込)
ご提供までに30分程お時間いただきます。(東京都目黒区自由が丘)
こちらは、香椎宮へ訪れた時のものです、写真は千早店のものです、自由が丘のメニューと若干異なります。

こちら、手作りのレアチーズケーキですね、クリームチーズとヨーグルトとゼラチンで手軽に出来ます。


​第15回 祇園祭について
今回の第15回目は祇園祭についてです、第14回目は彦火火出見命について紹介します。第14回 彦火火出見命と​第12回 大綿津見神、豊玉姫命​についてはもっとそれらしくなるように追記していますのでよろしくお願いいたします。
毎年7月に1か月にわたって行われる祇園祭、山鉾巡業を中止し、今年は規模を縮小し粛粛と行われてました。祇園祭とは元々は疫病を避けるための祭り。何故、この祭りは始まったのか、それについて少しだけ載せさせて頂きます、正、今回はネットは本に載ってるような事しか載せません、都市伝説的な事はやりませんのでよろしくお願いいたします。


祇園祭まつり
開催期間:7月1日~31日
[山鉾巡行]前祭:7月17日 / 後祭:7月24日

一部山鉾で、2年ぶりに山鉾建てが実施されます。
山鉾建てを実施する山鉾の一覧
【前祭】長刀鉾、函谷鉾、月鉾、鶏鉾、放下鉾、霰天神山、蟷螂山、綾傘鉾、
白楽天山、孟宗山、郭巨山、伯牙山の12の山鉾(伯牙山は期間短縮)
【後祭】北観音山、南観音山、大船鉾、鯉山、八幡山、役行者山の6山鉾
(公式HPより、)


祇園祭の由来と歴史
平安時代前期の869(貞観11)年、京で疫病が流行した際、広大な庭園だった神泉苑(中京区)に、当時の国の数にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神(スサノオノミコトら)を迎えて災厄が取り除かれるよう祈ったことが始まりとされる。
応仁の乱(1467~77年)で祭りは途絶えたが、1500(明応9)年に町衆の手で再興された。以後、中国やペルシャ、ベルギーなどからもたらされたタペストリーなどを各山鉾に飾るようになった。これらの懸装品の豪華さゆえに、山鉾は「動く美術館」とも呼ばれる。江戸時代にも火災に見舞われたが、町衆の力によって祭りの伝統は現代まで守られている。2009年にはユネスコ無形文化遺産に登録された。
山鉾巡行は本来、神輿渡御に伴う「露払い」の位置づけで、神幸祭に先立つ「前祭(さきまつり)」と還幸祭の「後祭(あとまつり)」がある。高度成長期以来、交通渋滞や観光促進を理由に、前祭と後祭の合同巡行が続いていたが、祭り本来の形を取り戻そうと分離が決定。2014年、約半世紀ぶりに後祭の山鉾巡行が復活した。
祇園祭のスケジュール
毎年、各山鉾町では、7月1日の「吉符入り」で幕を開け、2日には山鉾巡行の順番を決める「くじ取り式」が京都市役所で行われる。10日頃から前祭の鉾建てが始まり、12日頃には鉾の「曳初(ひきぞ)め」がある。14日の宵々々山、15日の宵々山、16日の宵山を経て、17日は、前祭の23の山鉾が祇園囃子(ばやし)にのって京都のメーンストリートを巡行。その夕方には、八坂神社の祭神を乗せた3基の神輿が四条寺町の御旅所に向かう神幸祭がある。
前祭山鉾巡行の翌日から、後祭に向けて鉾建てが始まる。21~23日は宵山期間で、24日は後祭の山鉾巡行。あわせて花笠巡行も繰り広げられる。夕方には、神輿が御旅所から神社に戻る還幸祭がある。
祇園祭の見どころ
前祭・山鉾巡行まで=12日頃の「曳初(ひきぞ)め」は、女性を含む一般市民も参加できる。16日の宵山までは、各山鉾町ではちょうちんの明かりに照らされた山や鉾が楽しめる。各山鉾では、病気除けとされるちまきや、学問成就や立身出世などのお守り(護符)を手に入れることもできる。
前祭・山鉾巡行(17日)=午前9時、計23基の山鉾が四条烏丸付近を出発。四条通を東へ向かった後、河原町通を北上し、御池通を西進する。四条麩屋町での長刀鉾稚児による「注連縄(しめなわ)切り」や、山鉾が各交差点で方向を変える「辻(つじ)回し」などが見どころ。
後祭・山鉾巡行(24日)=午前9時半に計10基が烏丸御池を出発。前祭とは逆向きのコースを進む。復活した大船鉾や、前祭とは逆向きの辻回しなどに注目が集まる。後祭列が復活するまで長らく代わりとなっていた花傘巡行の行列も、後祭列を追うよう御池通や河原町通を進む。
祇園祭のちまき
祇園祭の「ちまき」は、厄除けのために各山鉾町で売られている。ちまきが厄除けの役割を担っているのは、八坂神社の祭神・素戔嗚尊(すさのおのみこと)が旅の途中でもてなしてくれた蘇民将来に対し、お礼として「子孫に疫病を免れさせる」と約束し、その印として「茅(ち)の輪」を付けさせたのが始まりと言われる。その後、茅(ち)の輪」が変化して「ちまき」になったのでは-とされている。授かったちまきは、家の門口につるしておき、翌年の祇園祭で新しいちまきと取り替えるまでの1年間、厄除け・災難除けとして重宝されている。祇園祭のちまきは、食べ物ではない。通常は、ササの葉をイ草で巻き、束にして作られる。しかし2006年には黒主山保存会が、祇園祭で初の「食べられるちまき」を販売。「食べられる」と勘違いする人もいることから発想を転換し、生麩でちまきを作り、話題になった。
各山鉾のお守り
各山鉾では、お守りも販売されている。お守りのご利益は、山鉾の由来によってそれぞれ異なる。役行者山のお守りは、疫病よけや安産、交通安全をもたらす、という。鯉山は立身出世、浄妙山は勝ち守りとされる。浄妙山は、源平合戦のきっかけとなった、1180(治承4)年の宇治橋の戦いで奮闘した筒井浄妙坊明秀に由来するが、この合戦を機に源氏が立ち上がり、平家を打ち破ったことから、勝ち運を呼ぶ山と言われている。霰天神山では、京都が大火に見舞われた際、急に霰(あられ)が降って鎮火したが、霰とともに天神像が降りてきた-と伝えられることから、火よけや雷よけなどのご利益がある、とされる。(京都新聞HPより、)


毎年7月から1か月にわたり行われる祇園祭り、今日で最後でした、今回はコロナの影響自粛を余儀なくされ山鉾巡業は中止ましたが、一部山鉾が立てられ、宵山も行われました。YouTubeでも見させて頂きました、その思いや強さとというものは半端ないです。ちなみに、祇園祭の一つでもある博多祇園山笠でも飾り山を飾られましたが曳山笠は今年も行われませんでした、しかし、祇園祭も過去に何度か中止を余儀なくされた事も、来年こそお祭りが行われる事を願います。

明治12(1879)年、明治19(1886)、明治20(1887)年、明治28(1895)年
コレラを理由に5月に前倒ししたり、10月や11月といった秋に開催時期をずらしたりしています。
明治45(1912)年明治天皇の病気のため後祭が中止に。
大正2(1913)年明治天皇が亡くなった後、には服喪期間を終えた8月に開催時期をずらしました。
大正3(1914)年には明治天皇の皇后だった昭憲皇太后が亡くなったため、前祭を7月27日、後祭を8月4日に延期しました。
昭和18(1943)年からは太平洋戦争激化のため巡行は中止に。山鉾が大通りを再び巡行したのは昭和22(1947)年のことでした。
昭和37(1962)年 戦後復興が進み高度成長のさなかの山鉾巡行が突如中止となります。原因は巡行路の四条通で行われていた阪急電鉄の地下工事でした。(Yahoo!ニュースより、)


こう見ると以外に多いですね、明治以前のは今回書きませんがでしが、応仁の乱で中止は知っていましたが…今回の様に疫病で中止をせざるおえないなかった事も。
それから今回、7月31日にノーマスクデモを慣行しようとした団体が居ましたが、警察官が警戒に当たり物々しい雰囲気でしたが規模は小規模に、京都人々に大ブーイングされ流石に怖気づいてしまったのでしょう、流石に自粛したのでは。あれだけ煽りに煽っていたのに…にしても、祇園祭の最後日にそんなことをして京都の人に睨まれたらただじゃ済まないと思うのですが。原則、デモというのは市民が認めてこそ成立するものと思うのですが、最近ではそうでもない事が多い様な気がします。


元祇園 梛神社
二つの本殿が横に並ぶ珍しい神社

梛神社(なぎじんじゃ)は、京都府京都市中京区壬生にある神社です。
元祇園 梛神社と式内 隼神社、二つの本殿が横に並ぶ京都でも珍しい神社です。
元祇園 梛神社
梛神社は素盞嗚尊を奉斎して、厄除の神、武勇の神として崇敬祈願する人多く、実に霊験尊きお社です。
清和天皇、貞観十一年(八六九)三月朔日、京都に疫病が流行し、その悪疫を薙払い疫を鎮めるために、牛頭天皇(御名 素盞嗚尊)を播磨国広峰より勧請して四条の坊城へ神輿を入れ奉られました。此の地に数万本の梛の木があり、源 某と言う者が此の地に居住し、神霊を朱雀大路に近い梛の林中に祭祀しました。
後に八坂の郷に御遷座のとき、当地の住人は花を飾った風流傘を立て、棒を振り、楽を奏して神輿をお送りしました。これが祇園会の起源ともいわれ、古来より祇園会に傘鉾の役人は壬生村より出る定めになっていると伝えられています。
式内 隼神社
隼大神は天下安穏五穀豊穣を護らせ給うが故に、古来朝廷の御尊崇篤く、延喜式によれば、左京四条に坐す神一座隼神社と曰うとあります。京中に坐す神三座の内にて、貞観二年(八六〇)六月十五日朝廷より従五位下の神階を贈られ、七年、十年、十六年に級階を累進して従四位上に位し、天慶三年(九四〇)九月四日従三位を給わりました。延喜の制に大社に列し、四度官幣を受けた事は延喜式、三代実録、日本紀略等の正史に記載されています。
現在では、厄除の神、病気平癒の神として広く崇敬されています。


梛神社(なぎじんじゃ)
京都府京都市中京区壬生にある神社。通称は「元祇園社」。境内には大正期に遷座した式内大社の隼神社(はやぶさじんじゃ)が鎮座する。境内北側に御供石があり、祇園祭の山鉾巡行の際にこの石の上に神饌を置いて神に供える習わしになっている。もとは下京区万寿寺通烏丸西入ル、御供石町にあったが、1932年にこちらに移された。
梛神社
歴史

社伝では、貞観11年(869年)3月朔日に京での疫病流行により播磨国広峰(広峰神社)から牛頭天王(素戔嗚尊)を勧請して鎮疫祭を行った際、牛頭天王の分霊をのせた神輿を梛の林中に置いて祀ったのが創祀という。その後、牛頭天王の神霊を八坂に祀って祇園社(八坂神社)を創建する際、梛の住民が花飾りの風流傘を立て、鉾を振って楽を奏しながら神輿を八坂に送ったといい、これが祇園会傘鉾の起源であるとしている。また、このことから梛神社は「元祇園社」と呼ばれるという。明治までは小祠であったが、明治7年(1874年)と昭和4年(1929年)の復興により現在の形が整えられたという。
隼神社
歴史

創建は不詳。国史では『日本三代実録』において、貞観2年(860年)から貞観16年(874年)にかけて「後院隼神」の神階が無位から従四位上まで昇叙された旨の記載がある。また、延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では「京中坐神三座 並大」のうちに「左京四条坐神一座 月次新嘗 隼神社」として、式内大社に列するとともに月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。『三代実録』当時に四条に所在した後院は朱雀院(右京三条から四条)であることから、この隼神社は朱雀院の院内に祀られた神社であったと見られている[5]。朱雀院の復元研究においても院の南西角に鎮守として石神明神・隼社があったことが明らかとなっており、当時の隼社の位置は四条大路と皇嘉門大路交点の北東角、すなわち現在の中京区壬生花井町の南西部分と推定されている。その後、『延喜式』編纂時までには左京四条坊内坊城小路に移されたと見られ、以後同地で推移したとされる。
隼神社旧蹟碑
江戸時代には「隼」が訛って「ハヤクサ」と読まれたことから、瘡(くさ:皮膚病の一種)の平癒のために信仰されたという。その後大正7年(1918年)に現在地の梛神社境内に遷座した。旧鎮座地には石碑が建てられている。なお、奈良県奈良市にも隼神社の鎮座が知られる。同社の社伝では、平安遷都に伴い勧請されて平安京中の隼神社になったとするが、詳らかではない。

こちらは元祇園と呼ばれる場所です、祇園祭の元は市現在の場所に移転する事を反対した市民によって時に盛大な見送りしたとされています。それが山鉾巡業や花傘祭りの始まりに、用は今で言うデモみたいなものでした、いつの間にか疫病祓というもっともらしい理由に。
幕末に起こった”ええじゃないか”に似てますが、こちらは討幕派の陽動作戦で市民が踊らされただけなんです。
それから、この近くに新撰組の屯所となった八木邸がございます、ここでは芹沢鴨暗殺事件も、よくぞ民家でこんな事が…それから、池田屋事件も祇園祭のさなかで行われたのは有名、1カ月もあれば何らかの事件が起こってもおかしくないですね。もしかしら、近藤勇や土方歳三もお参り来た可能性も、確かにいろいろと濃ゆい場所ですが。今は御朱印で有名です。

第15回 祇園祭についてでした。





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最終更新日  2024年01月20日 20時41分40秒
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