4580091 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

ルーマニアックス

ルーマニアックス

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

ハンニバルQ

ハンニバルQ

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

ハピネスチャージプ… New! 武来神さん

UFOキャッチャー フ… ミスランディルさん
Junky Junction 二木らうださん

コメント新着

フリーページ

ニューストピックス

2024年08月15日
XML


​Fate/Grand Order ウエハース13​ おまけ​
です。
​ネロ攻撃とはマジか、、、​
元ネタのネロちゃまが出るのがコワすぎ!ドラコ―は元ネタネロ以外にもいろいろな宝庫でイレギュラーですが、前回…って書いたばかりですよ、イ〇ンに少し残っていた見たから1枚だけ購入したらこれだよ、ここに来てネロでるか、全30種類以上ある中で狙ったように出るとは、、、
​守護霊や守護神が暴君と狐神としか思えない…​
どちらも大いに心当たりがあるので……

闇、光コヤンスカヤさん(玉藻の前)両名とも離れられない運命やな、、、

※その前に
​4.バーサーカー/ドゥリーヨダナ(N ノーマル)​
我が名はドゥリーヨダナ!ドリタラーシュトラの息子にして百王子の長兄、すなわち、わし様こそが正統なるクル族の王である!……ん、なんでバーサーカーなんだ?最強にして最優の戦士でもあるわし様、普通はセイバーとかだろう?
ドゥルヨーダナとは、
【マハーバーラタ】より

… ベーダ文献にも知られていた名門バラタ族には,パーンドゥ王の5王子と,ドリタラーシュトラ王の100王子があり,彼らはいとこ関係にありながら,後者は前者の有徳と繁栄をねたんで,ことあるごとに5王子を陥れようとした。そのたくらみは100王子の長兄ドゥルヨーダナが5王子の長兄ユディシュティラを賭博に誘って打ち負かすことによって成功し(第2巻),5王子は辱めを受けたあげく領地を奪われ,12年間の国外追放を宣告される(第3巻)。13年目は素姓を隠してビラータ王の宮廷に住み(第4巻),約束を果たして王国の返還を迫ったが,100王子の側はこれに応じなかったため(第5巻),ここに両軍は聖地クルクシェートラに相会して,18日間の戦争となった。…
※「ドゥルヨーダナ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

ちょこちょこやっとうねん、インドのバーサーカーおっさんが出た、しかし、えらいセクシーすぎるねん、『ゴールデンカムイ』以来マジでよきと思うようになった、、、

​特別編 7 ローマ皇帝ネロは何故 大淫婦バビロンと暗喩されるのか、​
もう、このまま特別編をします特別編 7 はローマ皇帝ネロは何故 大淫婦バビロンと暗喩されるのかです
、前回の特別編 6はギリシャ神話のメドゥーサは本当に悪者かについてでした、メドゥーサは『Fate/stay night』から登場し、ギリシャ神話では怪物でも有名です、どのような経緯で怪物化したのかを基本的な事を引用してまとめています、ギリシャ神話の神様なんというか…メドゥーサのエピソードは特に煮詰めた感じでかなり可哀そうです。メドゥーサはもともと土地の地母神で信仰を広めるにあたり邪魔になって悪化したそうです。
ちなみに本編は​第44回 龍神様についてついて​紹で止まってます、しばらく特別編しますが、そこはご了承下さい、龍神様は謎多き神様で自然現象が元、世界各地に龍の存在が確認されます、幅広いため基本的な事やスピリチュアル的な事も混ざっていると思います。しかし、近年では龍神様はスピリチュアル的要素がが強すぎます、まかり間違ってもスピ系み詐欺に騙されないようにしたいですね。

17.セイバー/ネロ・クラウディウス (CR コスチュームレア) 
イラストレーター:ワダアルコさん

ネロ
1世紀中ごろのローマ帝国の皇帝。ローマの大火でキリスト教徒の迫害を行った。典型的な暴君として知られる。
第5代ローマ皇帝

ローマ帝国の5代目皇帝ネロ(在位54~68年)は、カエサルやアウグスティヌスの血をひくユリウス=クラウディウス朝の最後のローマ皇帝。はじめの5年間は師のストア哲学者セネカの補佐もあって善政をしいたが、次第に狂気を発し、乱行が多くなる。64年7月、ローマの大火が起こり、ネロが新しい都市計画を思いついて自らに火をつけたとの風聞がたつと、ネロはそれを打ち消すため、キリスト教徒を放火犯にしあげて大迫害を行った。さらに陰謀の疑いがあるとしてその師であったセネカを捕らえ死に至らしめた。最後の数年はローマを離れ、強い憧れを懐いたギリシアに渡り、アテネで演劇や音楽に熱中、67年には自ら古代オリンピックに参加した。このようなローマ皇帝らしからぬ行動から完全に皇帝としての人望を無くし、元老院も廃位を決定、ネロは追いつめられて68年、自殺した。当時、パレスチナのユダヤ人の反乱であるユダヤ戦争を指揮していた軍司令官ウェスパシアヌスを推す声が東方駐留の軍隊の中に起こり、元老院は次の皇帝に軍人に人気の高い彼を選任した。
Episode 母アグリッピナとの陰惨な関係
アグリッピナ(アウグストゥスの孫娘を大アグリッピナ、その娘なので小アグリッピナとも言う)は先夫とあいだに生まれたネロを連れ子に皇帝クラウディウスの妃となった。権力欲の旺盛なアグリッピナはわが子ネロを皇帝にしようと、クラウディウスの娘オクタビアと婚約させ、次に何と皇帝クラウディウスの暗殺を計画した。ついにその毒殺に成功、どさくさのあいだにネロを即位させることに成功した。その時ネロは17歳、母に頭が上がらないながらも、元老院を尊重して共和政の伝統を守るなど積極的な姿勢を示した。ネロは政略結婚の相手であった正妻を嫌い、解放奴隷だった侍女のアクテを恋人にしたころから、次第に母離れが始まった。息子の離反に怒ったアグリッピナがひそかにクラウディウスの遺児ブリタニクスを皇帝に立てようと画策すると、その動きを察知したネロは、宮廷の晩餐でブリタニクスを毒殺する。母親の手段を息子が真似たわけだ。
 こうして二人のおぞましい愛憎関係は深みにはまっていく。やがてネロは、取り巻きのオトの妻ポッパイアを愛人にする。ポッパイアはネロを操るアグリッピナを遠ざけようとすると、アグリッピナ(40歳)はネロ(22歳)の寝室に現れ、二人は背徳の関係に入る。この噂はローマに広がり、ネロにとっても母親であり愛人の一人であるアグリッピナは重荷になっていく。ついにその殺害を決意し、ナポリの海上に誘い、船を沈めようとしたが失敗、アグリッピナは岸まで泳ぎ着き、別荘に逃れた。死んだと思った母が生きていたことに動転したネロは刺客を別荘に送ると、もはやこれまでと観念したアグリッピナは下腹を出し「さあ、ここをお突き!ここからネロが生まれたのだから」とおそろしい台詞をはいて殺された。さらにポッパイアは正妻になることをねだり、ネロはオクタウィアが子供を産まなかったことを理由に離縁した。それだけではく、密通の嫌疑をかけて幽閉し、最後は自殺を強要した。これらが有名なネロの周辺の血なまぐさい事件で、すべて女がからんでいた。話はこれだけにとどまらず、ナポリで連日リサイタルを開いては自ら歌手となって歌い、ローマ市民が「パンと見せ物」を要求すると国の財産を投げ打ってカーニバルを開催、毎夜らんちき騒ぎが繰り広げられた。ネロの興味は今度は男性に移り、ピタゴラスという奴隷と正式な手続きを踏んで結婚までしている。ローマに大火が発生したのはそのような一夜だった。その後、政治にまったく関心を無くしたネロは、ギリシアに渡って戦車競争と歌舞音曲に明け暮れる。その頃はさすがのローマにも皇帝の乱行を非難する声が起こり始めた。<秀村欣二『ネロ』1967 中公新書 により構成>
ローマの大火
64年7月、ローマに数日にわたる大火が発生、そのほとんどを焼失した。その様子はタキトゥスの『年代記』に詳しく描かれている。
(引用)偶然だったのか、元首の策略によるのか、不明である。それはともかく、今度の火事は、それまで都を襲ったどの猛火よりも規模が大きく被害もはなはだしかった。火の手が最初にあがったのは、大競技場がパラティウム丘とカエリウス丘に接する側である。そこには燃えやすい商品を陳列した店屋ばかり並んでいた。それで、発生と同時に火勢は強く、おまけに風にあおられ、石塀をめぐらした邸宅や外壁に囲まれた神殿などの延焼を遅らせるような障害物がまったくなかったためもあって、見る見るうちに大競技場をすっぽり囲んでしまう。炎は凶暴な勢いでまず平地をなめつくすと、次には高台にのぼり、ふたたび低地を荒らした。どんな消火対策も追いつかぬくらい、災害の勢いは早かった。その頃のローマは、幅の狭い道があちこちと曲がりくねって、家並も不規則だったから、被害を蒙りやすい都であった。それに加えて、恐れおののく女の悲鳴、もうろくした人、がんぜない子。だれもが自分の安全を計り、他人の身を気遣い、弱い者を引き連れあるいは待ちながら、ある人はおくれ、ある者はあわて、みなお互いに邪魔し合う。多くの人が背後を気にしているまに、横から前からと火の手にかこまれてしまう・・・。<タキトゥス『年代記』下 岩波文庫 p.264>なかには消火を邪魔し、おおっぴらに松明を投げながら「その筋の命令でやっているのだ」と叫んでいる人たちもいた。ネロは呆然自失の態でいる罹災者を元気づけるため、自分の庭園を開放し、応急の掛け小屋を設けて群衆を収容しようとし、近郊の自治市から食料を運ばせ、穀物の価格を下げさせたが、何の足しにもならなかった。というのは、「ネロは都が燃えさかっている最中に、館内の私舞台に立ち、目の前の火災を見ながら、これを太古の不幸になぞらえて『トロイアの陥落』を歌っていた」という噂が広がっていたからである。またようやく火が鎮まってから「ネロは新しく都を建てなおし、それに自分の名前を付けようという野心を、日ごろから抱いていた」といった噂もながれた。<タキトゥス 同上 p.265-266>
Episode 大火の要因と新都市計画
すべての建物がコンクリート造りか石造だったローマで火災がなぜ延焼したか。それは当時の建物の水平材(梁や天井、床)が木材だったからで、梁がそのまま外側につきだしたバルコニーを伝わって延焼し、その火が逃げまどう人々の頭上に降り注いだのだ。また、大火災になった最大の理由は、当時人口100万に急増したローマは4階建て、5階建ての集合住宅が密集する高密都市になっていたことである。そこで大火後の新都市計画では、道路を広げ、建物は4階までに制限され、必ず中庭を設けること、床には木材使用が禁止され、天井には石材が奨励された。また消火用の貯水槽や水道を張り巡らせた。同時にネロは個人的な趣味のために、焼け跡に広大な「黄金宮殿」を建設した。前庭には巨大なネロの立像を建て、海や野山をもした庭園には動物を放し飼いにし、各部屋には金箔を張りつめ、宝石で飾り、食堂の天井には象牙の鏡板がはめこまれ、浴場には海水と硫黄泉をひいた、という。<青柳正規『皇帝たちの都ローマ』1992 中公新書 p.236-244>
ネロ帝のキリスト教徒迫害
ネロ帝はローマ帝国による最初のキリスト教の迫害を行ったことでよく知られている。64年、ネロ帝はローマ大火の原因をキリスト教徒の放火であると断定した。それまでキリスト教についてはほとんど知られていなかったがこれで人々にその存在が知られるようになった。ネロは捕らえたキリスト教徒を簡単な裁判で死刑に決め、猛獣の餌食にしたり、十字架にかけたり、松明代わりに燃やしたりしたという。またこのとき、キリスト教の最高指導者として捕らえられたペテロも、逆さまに十字架にかけられ殉教した。パウロもこのときローマで殉教したとされている。
資料 タキトゥスの伝えるキリスト教徒迫害
ネロがローマの大火の際にキリスト教徒を迫害したことを伝えるのは、タキトゥスの『年代記』がほぼ唯一の史料である。またこの史料で、クリストゥスという名で初めてイエス=キリストが登場する。(引用)民衆は「ネロが大火を命じた」と信じて疑わなかった。そこでネロは、この風評をもみけそうとして、身代わりの被告をこしらえ、これに大変手のこんだ罰を加える。それは、日頃から忌まわしい行為で世人から恨み憎まれ、「クリストゥス信奉者」と呼ばれていた者たちである。この一派の呼び名の起因となったクリストゥスなる者は、ティベリウスの治下に、元首属吏ポンティウス・ピラトゥスによって処刑されていた。その当座は、この有害きわまりない迷信も、一時鎮まっていたのだが、最近になってふたたび、この過悪の発生地ユダヤにおいてのみならず、世界中からおぞましい破廉恥なものがことごとく流れ込んでもてはやされるこの都においてすら、猖獗(しょうけつ)をきわめていたのである。そこでまず、信仰を告白していた者が審問され、ついでその者らの情報に基づき、実におびただしい人が、放火の罪というよりむしろ人類敵視の罪と結びつけられたのである。彼らは殺されるとき、なぶりものにされた。すなわち、野獣の毛皮をかぶされ、犬に噛み裂かれて倒れる。(あるいは十字架に縛り付けられ、あるいは燃えやすく仕組まれ、)そして日が落ちてから夜の灯火代わりに燃やされたのである。ネロはこの見世物のため、カエサル家の庭園を提供し、そのうえ、戦車競技まで催して、その間中、戦車馭者のよそおいで民衆のあいだを歩きまわったり、自分でも戦車を走らせたりした。そこで人々は、不憫の念を抱きだした。なるほど彼らは罪人であり、どんなにむごたらしい懲罰にも値する。しかし彼らが犠牲になったのは、国家の福祉のためではなく、ネロ一個人の残忍性を満足させるためであったように思われたからである。<タキトゥス『年代記』下 岩波文庫 p.269-270>この資料を基に、壮大な歴史小説に仕上げたのが、ポーランドの作家シェンキヴィッチの『クオ・ヴァディス』である。(世界史の窓より、)
ま…女体化はあるあるだね、他にもやらかしているが、ネロが暴君だった一番の原因はキリスト教徒を迫害したことですね、こう言うときはたいていフェイクニュースが流れるもの、いまだにそうだ、誰かに責任を押し付けるのだよね、それがたまたま当時は新興宗教団体だったキリスト教徒だったのかもしれない。まあ、過去に江戸でも京都でも何度か大火事が起こったし、去年はハワイでも送電線が原因で大規模な火事が起こったし、今年は今現在ギリシャ・アテネ郊外でやはり大規模な山火事が…これは、連日の猛暑と乾燥した地中海性気候が原因、現在の場合ほとんど理由が分かるようになってきています。
ネロ(ローマ帝国皇帝)
ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス(羅: Nero Claudius Caesar Augustus Germanicus, 37年12月15日 - 68年6月9日)またはネロ・クラウディウス・カエサル・ドルスス・ゲルマニクス(Nero Claudius Caesar Drusus Germanicus)は、ローマ帝国の第5代皇帝。
経歴
誕生から即位まで

小アグリッピナとグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスの息子として37年に生まれる。 父はマルクス・アントニウスと小オクタウィアの娘大アントニアとルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスの息子であり、母は初代皇帝アウグストゥスの孫大アグリッピナとゲルマニクスの娘であった。 生まれた時の名前はルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス (Lucius Domitius Ahenobarbus) である(しかしながら、以下混同を避けるため「ネロ」の名称で通す)。 カリグラが帝位を継承した37年に産まれるが、まもなく父グナエウスが40年に死去し、母小アグリッピナもその妹ユリア・リウィッラと共にカリグラによって追放される。父グナエウスの遺産はカリグラに没収され、ネロは叔母のドミティア・レピダのもとで育てられた。3年後にカリグラが暗殺され、伯父のクラウディウスが擁立されて第4代ローマ皇帝となると、彼によって小アグリッピナはローマに戻ることを許された。 クラウディウスには皇后メッサリナとその間に息子のブリタンニクスがいたが、48年にメッサリナがガイウス・シリウスとの重婚および反逆の罪に問われると、後妻として小アグリッピナがクラウディウスの皇妃の座に納まった。母の計略により、ネロはクラウディウスの継子から養子となる。 この時点で名前がネロ・クラウディウス・カエサル・ドルーススとなった。ネロはサビニ族の言葉で「果敢な男」を意味し、クラウディウス氏族に名乗る者が多かった。ユリウス=クラウディウス朝一門にも伝統的な名である。 皇帝クラウディウスの側近パッラスや母の采配により、ブリタンニクスの姉オクタウィアとネロとの婚姻が成立すると、ブリタンニクスは徐々に疎外され、ネロの存在が際立つようになる。そして年少のブリタンニクスよりも後継者に相応しいとさえ見られるようになり、ブリタンニクスより先に即位する確約を得た。クラウディウスが54年に死去すると、16歳のネロが即位して皇帝になる。
皇帝ネロ
ネロの治世初期は、家庭教師でもあった哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカや近衛長官であったセクストゥス・アフラニウス・ブッルスの教えや政治の補佐を受け、名君の誉れが高かった。しかし数年後にはネロとその周囲の人間(母と側近2人)との間に微妙な緊張関係が見られるようになり、それがネロの影響力に現れてくる。例えばネロが席につくとアグリッピナは隣に座っていたが、セネカがそれを諌めている。ネロの友人もアグリッピナに不信感を抱きネロ本人に忠告してくる。またネロは妻オクタウィアには不満で、解放奴隷のアクテ(英語版)を寵愛していたが、アグリッピナの命でネロから離されそうになったところ、セネカの助けで事無きを得るということもあった。 ネロが母親の干渉を疎ましく思うようになると、アグリッピナはかつて自らが退けたブリタンニクスに注目するようになる。この時点でもブリタンニクスは帝位継承権を有しており、その意味ではネロに代わりうる存在であった。また彼は成人式がせまっており、大人の仲間入り、すなわち帝位継承権を行使できる立場に近付いていた。そのブリタンニクスは成人の儀式目前で55年に急死した。タキトゥスによれば、ネロが毒殺したという。 ネロとアグリッピナは一触即発状態となったが、セネカやブッルスが仲裁に入り、事無きを得た。この頃、パエトゥスなる男がブッルスや母親の取り巻きの解放奴隷マルクス・アントニウス・パッラスがファウストゥス・コルネリウス・スッラ・フェリクスの皇帝擁立を謀っていると告発したが、セネカが両名の弁護を担当し、パエトゥスは追放刑となった。しかし、カッシウス・ディオによれば、セネカもブッルスもこの事件以降、保身に努めるようになったという。そしてネロが妻オクタウィアと離縁し、ポッパエア・サビナと結婚しようとするとアグリッピナと対立することとなり、59年にはアグリッピナを殺害した。62年にブッルスが死去、同年セネカが再び横領の咎で告発される。ここに至ってセネカは引退をネロに申し出る。こうしてネロは妻オクタウィアと離縁、そしてポッパエア・サビナと結婚する。ポッパエアは既に結婚していたが、夫オト(後の皇帝)は離婚させられた上、ルシタニアに左遷された。その年の6月、オクタウィアが不倫の罪で自殺させられた。 ネロの暴君ぶりは元老院議員の生死まで左右した。62年にプラエトル(法務官職)にあった者が宴席でネロの悪口を言った咎で処刑されたことから始まり、パッラスを含む多くの元老院議員が処刑された。65年に元老院議員ガイウス・カルプルニウス・ピソを皇帝に擁立する計画が発覚し、ピソに連座してセネカが自殺を命ぜられている。 こうして55年のブリタンニクスの殺害に始まり、59年に母(アグリッピナ)、62年に妻(オクタウィア)、65年にセネカを殺害、加えて64年に発生したローマ大火の犯人としてキリスト教徒を迫害したことから、後世からは暴君として知られるようになる。ただ、ネロの後半生の悪行は、親友オトの前妻で再婚相手の皇妃ポッパエアによるものとする説も多い。
・ガイウス・スエトニウス・トランクィッルスが、そういうことを言う人がいるという形で『皇帝伝』に載せた話から、よく母親に近親姦をされた例として引き合いに出される。
・ネロの侍医アンドロマコスは、蜂蜜を使った膏薬テリアカを考案した。テリアカは狂犬病に罹った犬や毒蛇に噛まれた際の、さらにはペストの治療薬として用いられた。また、ネロの妻は蜂蜜とロバの乳を混ぜたローションを使っていたと伝えられている。
・なお、鉛中毒によって暴君に豹変したという説が語られることがある。というのもローマでは食器、コップ、水道管など広範囲にわたって鉛が使用されており、また、ローマ人(ネロとは別)の頭髪から大量の鉛が検出されているためである。また、少なくない素封家、政治家が若いころまともだったのに年を取るにつれて豹変しているのも根拠として挙げられることもある。しかしながら、古代ローマ人において特に鉛中毒の症状が顕著に発現したという有意の統計は得られておらず、また性格の変化は鉛中毒の一症状、それも他の諸症状に比べて目立たないものに過ぎず(鉛中毒による神経障害は、まず歩行困難などの症状に現れる)、そもそもネロの事績に関して言えば、名君が暴君に豹変したという性質のものではなく、善政を持続する能力に欠けていたというものであり(後世で悪政とされる行為の合間にも、善政的な行為をしている)、鉛中毒説は主流の学説ではない。
政策
ネロの政策は光と影がある。ローマの大火後にネロが陣頭指揮した被災者の救済やそのための迅速な政策実行、ローマ市の再建は市民に受けがよかった。ネロに批判的だったタキトゥスも、「人間の知恵の限りをつくした有効な施策であった」と記している。当時のローマ市内は木造建築がメインだったが、大火以降にネロが建築したドムス・アウレア(黄金宮殿)は、ローマン・コンクリートの普及に一役買っている。また、ネロがローマの大火以降行った貨幣改鋳は、その後150年間も受け継がれた。ただし、この大火もネロ自身が裏で暗躍し、自分好みの街を作りたかったという望みから起こされたとも言われている。この当時の文献はローマ博物館に寄贈されている。 59年には南イタリアのポンペイの円形闘技場で興奮したポンペイの住民とヌケリアの住民との間で乱闘が起き、以後、10年間、闘技会の開催を禁止されている。これは、市民の秩序と安全のためであり、この際に二人役(市長職)を辞職させている。市民に剣闘試合を禁じることは、市民の支持を失う可能性もあった。結果、当時の后妃ポッパエアの計らいにより、剣闘試合の禁は数年後に解かれた。 ブリタンニアで女王ブーディカを首謀者とする反乱が起こったが、鎮圧に成功した。鎮圧後の戦後処理も適切だったため、ドミティアヌス帝の時代までブリタンニアは平穏であった。 またグナエウス・ドミティウス・コルブロの奮戦もあり(インペリウム授与を躊躇ったために解決が遅れたが)、パルティアなどオリエント諸国との外交政策も成功し、その後東方とは50年以上、トラヤヌスの時代まで平和を保つことができた。ネロの死後、パルティア国王は元老院に対して、「ネロは東方諸国にとって大恩ある人であり、今後も彼への感謝祭を続けることを認められたい」と申し出て受理されている。セネカ引退後も、善政と無縁ではなかったのである。 ただ、その一方で歌手の真似事や部下や親族の見目麗しい人物を男女問わず皇帝の権限で搾取をするなど、国家元首の振る舞いとしては明らかに問題だった。謀反を企てた者も、ネロの政治姿勢、政策より、このような振る舞いこそが皇帝にふさわしくないとしていた。また皇帝暗殺の陰謀に関連して、コルブロなど有能な将軍を確たる証拠もなく謀殺したことで、軍からも反感を買ってしまった。
初代ローマ教皇・ペトロの殉教
初代ローマ教皇・ペトロは、ネロ帝による迫害で殉教した。ペトロは、迫害の激化したローマから逃れ、アッピア街道をゆくと、師のイエスが反対側から歩いてくる。ペトロが「主よ、どこへいかれるのですか?(Domine, quo vadis?)」と問うと、イエスは「あなたが私の民を見捨てるのなら、私はもう一度十字架にかけられるためにローマへ」と答えた。ペトロはそれを聞いて悟り、殉教を覚悟してローマへ戻ったという。しかし、以上の伝承は、『新約聖書』外典である「ペテロ行伝」などに記されたもので、『新約聖書』正典はもちろんその他の信頼できる歴史書にも記載されておらず、史実としては実証されていない。
芸術の愛好家
ネロには四頭立て戦車の騎手や竪琴の歌手という、当時の社会では蔑まれていた芸人になりたいという願望があった。歌が好きで、数千人に及ぶ観衆を集めコンサート(ワンマンショー)を開くのが趣味であった。 59年には「青年祭」という私的祭典で演奏した。翌60年には、4年に1度開かれるオリンピア祭に対抗し、5年に1度開かれるネロ祭を創設した。音楽、体育、戦車の三部門からなる。そのうち、ネロは竪琴、詩、弁論の3種目に出場した。元老院は皇帝がそのような行動をするのを阻止しようと出場の有無を問わず優勝の栄誉を授けようとしたが、ネロは堂々と出場して勝利するとこれを拒否した。結局、優勝者が誰になったかは不明である。 さらに、オリンピア競技にも出場し、優勝した。ただし、主催者側が大胆な出来レースとした。獲得した栄冠は1800にも及んだが、この勝利には不正が多くあったことから様々な批判が存在した。たとえ敗れても勝利とされ戦車競技では戦車から落下して競争から脱落しながらも優勝扱いになってさえいる。 64年には詩人として、ナポリで初めて公式に舞台に立った。ナポリはネロの大好きなギリシャ文化が多くあり、劇場が小さすぎるとして、再建築を命じたほどである。ポンペイウス劇場では独唱会も開いた。1度目は運悪く地震で観客は皆逃げてしまった。2度目は出入り口に人員を配置して逃げられないようにした。しかし、あまりの退屈さに逃げる者が続出。出入り口が使えないため、塀をよじ登ったり死んだふりをして棺桶で外に運び出された者もいたという。さらには例外なく外に出ることを禁じたため、産気づいて出産した女性も数人いたと伝えられる(親友の一人であったウェスパシアヌスはネロの演奏中に退屈のあまり眠ってしまい、これが原因で絶交されてしまう)。 65年の2度目の「ネロ祭」でも自ら詩を披露し竪琴を演奏した。66年にはユダヤ属州で大反乱が勃発(ユダヤ戦争)する中、9月から68年初までギリシアに武者修行に出ている。イタリア凱旋時には、娯楽に飢えていた民衆に大歓迎されている。ただし、この間、上流人士にも芸を強要したため元老院議員や騎士の間ではネロに対する軽蔑や屈辱感が高まっていた。
自殺
68年3月、ガリア・ルグドゥネンシスの属州総督・ガイウス・ユリウス・ウィンデクスによる反乱が勃発。属州総督のガルバ、オトがこれに同調した。ウィンディクスの反乱は高地ゲルマニア軍により4月には鎮圧される。ガルバは元老院から「国家の敵」決議を受け逃亡した。 しかしその後、穀物の価格が高騰しているローマで、エジプトからの穀物輸送船が食料ではなく宮廷格闘士用の闘技場の砂を運搬してきたという事件が報じられ、ネロは市民の反感を買った。元首の支持率低下を機にネロと対立していた元老院は、ネロを「国家の敵」としガルバを皇帝に擁立する。ネロは逃亡しローマ郊外の解放奴隷パオラの別荘に隠れたが、騎馬兵が近づく音が聞こえるに及び、自らの喉を剣で貫き自殺した。その際自分では死にきれず奴隷スポルスに切らせたという。 本人の自殺後、その墓にはローマ市民から花や供物が絶えなかったという。ネロの死後、皇帝となったガルバはネロ派の軍や都市と敵対し粛清した。しかしガルバから離反し皇帝になったオトはネロ派の復職を認めた。ネロの銅像やドムス・アウレアの建設再開を許可し、ネロを裏切った護衛隊長ティゲリヌスを処刑し、民衆の人気を買った。オトの次の皇帝ウィテリウスはネロの慰霊祭を催して民衆を喜ばせた。 また、真偽ははっきりしないが、死の直前に言ったとされる「何と惜しい芸術家が、私の死によって失われる事か」という言葉は有名。さらにネロが自刃した直後に現れた追っ手の百人隊長が、すでに死したネロに危害を加えるのは流石に人の道に反するので、遺体を丁重に扱うためにマントを掛けようとした。すると突如ネロの目が開き百人隊長の方を向くと「遅かったな。だが、大儀である」と言い残し、かっと目を見開いたまま絶命した。百人隊長はその死に様に恐怖したという。ネロの最期に関してはスエトニウスの伝記『皇帝伝』に詳しいが、あまりにドラマチックな内容のため、作家スエトニウスの創作という説が強い。
死後
死後にネロは元老院によってダムナティオ・メモリアエ(記録抹殺刑)を課されたが、69年に皇帝となったアウルス・ウィテッリウスはネロの立派な葬儀を行った。ネロを含む幾人かの皇帝の像は死後に破壊されたが、後に作り直された。 死後にネロは神格化された。皇帝ドミティアヌスに乗り移ったという伝説や、ネロがよみがえったとする伝説(en:Nero Redivivus legend)がある。また、アカイアやアシアなどの属州及びパルティアにおいて「偽ネロ」の出現が相次いだ。 ネロの死によってユリウス=クラウディウス朝は5代94年の歴史に幕を下ろし、断絶。以後、軍が武力を背景に皇帝を擁立するようになり、ローマ内戦に突入することとなる。
ドムス・アウレア(黄金宮殿)
ドムス・アウレア(黄金宮殿)は、ローマ市街を焦土と化した64年の大火災の後に建設された、誇大妄想的な巨大宮殿である。 帝政初期のローマ建築にあって、皇帝ネロが造形に与えた影響はかなり大きい。ネロはローマ芸術の保護者を自認しており、今日、皇帝浴場と呼ばれている建築の先駆けとなるネロ浴場、そしてドムス・アウレア(黄金宮殿)を建設した。当時ローマ市は非常に密集した状態であったにもかかわらず、エスクイリヌスの丘(現エスクィリーノの丘)の斜面にテラスを造り、人工池(現在コロッセオがある場所)とこれを囲む庭園を見下ろす、すばらしい景観を眺めることができた。現在はトライアヌス浴場の地下に残された一部のみが残る。八角形を半分にしたような中庭を挟んで、方形の中庭を囲む食堂などがある部分と八角堂のある部分に分かれ、おおまかな構成は当時の海辺に建設されたヴィッラそのものである。内部は大理石やモザイクを使った贅沢なもので、その装飾はルネサンス時代にグロテスクと呼ばれ、ラファエロ・サンティらに影響を与えた。しかし、この建物の真に革新的な部分は、ローマン・コンクリートによって構築されたヴォールト天井とドームが架けられた八角型の部屋である。八角堂の形式は他にみられないが、ドムス・アウレアではじめて採用されたとは考えにくいので、直接の原型があると考えられる。ドーム頂部からだけでなく、これに付随する部屋への採光を確保できるような造形は、オクタウィアヌスの時代から培われたローマン・コンクリートがあってはじめて成り立つもので、皇帝自らの邸宅に革新的な造形が採用されたことは、他の建築に新しい技術や意匠をもたらす契機となった。 ネロの死後、104年に宮殿は火災に遭い、その敷地は次々と公共建築用地に転用された。宮殿の庭園にあった人工池の跡地にはコロッセウム(コロッセオ、コロシアム)が建設された。建設開始は75年で、利用開始は80年である。正式名称は「フラウィウス闘技場」(フラウィウス円形闘技場)だが、ネロの巨大な像(コロッスス)が傍らに立っていたため、コロッセウムと呼ばれるようになったといわれている。
コリントス運河
67年にネロはコリントス運河の開削を開始。コリントス地峡に運河を掘る構想は古代ギリシアの時代からあり、古代ローマ時代にもカエサルやカリグラも関心をもっていた。ネロは6000人の奴隷を動員して3.3kmあまりを掘ったが、途中、ローマでガルバらの反乱が起こりネロは自殺してしまう。死後、帝位についたガルバによって工事は中断された。ネロが計画した運河は、1893年に完成した現在のコリントス運河と同じルートである。古代ローマの土木建設技術の高さがうかがわれる。
年表
37年12月15日 - アンティウム(現在のアンツィオ)にて出生。
50年 - クラウディウス帝の養子となり、ネロ・クラウディウスと改名する。
51年 - 母アグリッピナの意向で通常より2、3年早く成人式を挙げる。
54年10月13日 - クラウディウスの崩御により即位。
55年 - 義弟ブリタンニクス死去。
57年 - 元老院属州と皇帝属州を合わせ国庫を一本化する。
59年 - アグリッピナを殺害。
62年 - オクタウィア自殺。ポッパエア・サビナと再婚。
64年 - ローマの大火。その跡地に黄金宮殿(ドムス・アウレア)を建設。
65年 - ピソの陰謀。セネカが自死。
67年 - コリントス運河の開削を試みるも成功せず。
68年6月9日 - 反乱を受けて自殺。

キリスト教聖書学における暴君としての評価
64年のローマ大火にかこつけて、人類史上初めてキリスト教徒を迫害した挙句、「人類(ローマ国民)全体に対する罪」を罪状として科したため、キリスト教文化圏を中心にネロに対する評価は低い。さらに、使徒・ペトロはネロの迫害下で逆さ十字架にかけられ殉教したとされる。だが当時のローマ帝国内では、ローマ伝統の多神教を否定するユダヤ教を嫌悪している者が圧倒的に多数派であった。ネロを糾弾したタキトゥスをはじめとする後世のローマの歴史家達も、このことについてはむしろネロに近い立場を取った。 当時のローマ教会の構成人数は多くても数十人程度であり、一般的にキリスト教はユダヤ教の一派とみなされていた。にも拘らずネロがなぜキリスト教徒を限定して放火犯としたのか。パウロの伝道によるキリストの福音をめぐって、キリスト教徒は一部のユダヤ教他宗派・異邦人と対立し、各都市で騒乱が発生しており、ローマでも49年に騒乱を起こした者が追放されていた。また、ネロの第二妻のポッパエア・サビナはユダヤ教徒と考えられており、彼女やその周辺のファリサイ派やサドカイ派から、イエス・キリスト信仰者が社会に動乱を引き起こす存在として伝達されていた可能性もある。これらによって放火犯とイエス・キリスト信仰者が結びつきやすかったのかもしれない[10]。 また、後世の記述はネロを「国家の敵」として追放した元老院との繋がりが強いスエトニウス、タキトゥス、カッシウス・ディオによる著書による影響力が強く、権力者としての名声を失墜させようとして描かれた人物像である可能性があることに注意する必要がある。また、フラウィウス朝を創始したウェスパシアヌスはネロを悪帝としてメモリアの破壊を先導した。 ただし、タキトゥスはもとよりキリスト教会の資料でも、この頃のキリスト教を迫害したのはネロではなくポッパエアがネロを動かしていたとするものもある。 以上のキリスト教徒迫害のため、ネロは悪魔(獣の数字)や堕落した女(大淫婦バビロン)で暗喩される。
獣の数字「666」(悪魔として)
『新約聖書』の『ヨハネの黙示録』に獣の数字「666」について記述がある。この数字は「皇帝ネロ」を指すとされるもので、自由主義神学の高等批評による聖書学で最も支持されている説である 。 つまり、皇帝ネロ (Nero Caesar) のギリシア語表記 (Νέρων Καίσαρ, Nerōn Kaisar) をヘブライ文字に置き換え (נרון קסר, Nrwn Ksr)、これをゲマトリア(カバラ的な数値化)したその数が666になるというものである。この一説は直前の皇帝崇拝らしき記述とも意味的に整合する(Wikipediaより、)

ところでネロと豊臣秀吉とどっちが凄いだろうか、ネロは老院貴族やキリスト教徒からの評価だろうね、火事の後しっかり再建しているし、悪い面ばかりじゃない、ネロを暴君と呼び始めたのは、元老院貴族であった。 皇帝自身の派手なパフォーマンスによる財政難を、貴族の追放や処刑による財産没収で補おうとしたからだ。 その被害には遭わなくても、共和制国家である当時のローマにおいて、元老院を軽視するネロの態度は目に余ったに違いない。とか、老院貴族は後のキリスト教におけるパトロンだ、更に、よく見たら悪貨鋳造でインフレ進行、民衆の反感が募る今の時代とすごく似通るところもあったので驚いています。
なんだか、ネロちゃまのと胸とソダシ胸が似ていたんで…それだけ胸板が厚い、アルトリア顔で胸が大きいのはネロちゃまだけだ、
『ウマ娘』のデュランダル、セイバーを元にしてる???と思われるけれども、一番似ているのは実はネロちゃまかも。※全く余談ですが、パリ五輪を見ると日本馬が凱旋門を勝てないのも何となく理解した、金子氏が嫌うのもバーイード号やイクイノックス号の様な有力馬が出てこないのも、なお、凱旋門時期は日本で言う梅雨の時期でコースがぬかるんだ田んぼになるから尚更…
世界史で「暴君ネロ」と習ったけれど……実は名君だった? 古代の落書きが示す別の顔
第5代ローマ皇帝ネロ(紀元37~68)は、類いまれな「暴君」として知られます。母を殺害し、キリスト教徒を迫害し、芸術に心を奪われた末に自ら命を絶ったその人生は、小説や映画に描かれました。ところが、その暴虐無人ぶりは虚像に過ぎず、実は帝国繁栄の基礎を築いた「名君」だった、との説が近年有力になっています。欧州で相次いで催されたネロに関する特別展を訪れ、考えました。
ネロは紀元54年、伯父であり養父でもあった第4代皇帝クラウディウスの死去を受けて、16歳で即位した。その背後には、強い政治的野心を抱く母アグリッピナの策謀があったという。哲学者セネカの指導を受けて当初は政治にいそしんだものの、何かと政治に口を出す母を殺害。セネカや妻も死に追いやった。64年に起きたローマ大火の際には、キリスト教徒に責任を負わせて弾圧した。この間、次第に芸術にのめり込み、ギリシャ文化を熱愛。自らコンサートを開いたり、劇場で舞台に立ったり、さらには古代オリンピックに出場して優勝したりした。こうした姿のネロを、元老院は「国家の敵」と名指しする。追い詰められたネロは、30歳で自害した。「暴君」としての人物像は、「年代記」「ゲルマニア」などの著作で知られるタキトゥスや、スエトニウス、カッシウス・ディオといった著名な歴史家の記述に多くを負っている。その後、ポーランドのノーベル文学賞作家ヘンリク・シェンキェヴィチの小説「クォ・ヴァディス」がネロの悪行やキリスト教徒迫害の様子を描き、さらにこれが映画化され、悪役イメージが定着した。このような先入観に挑戦し、ネロの業績の再評価を試みたのが、ロンドンの大英博物館で10月24日まで開かれている特別展「ネロ 虚像に覆われた男」だ。英国は、ネロとの深い関係がある。紀元60年ごろ、この地方の王族の女性ブーディカがローマ帝国に対して反乱を起こし、ネロによって最終的に鎮圧されたからだ。その後、ブーディカは英国で英雄と見なされ、英国の歴史教科書にも登場するという。「そのような関係があったにもかかわらず、英国内ではこれまで、ネロをテーマにした展示が開かれた形跡はありません。今回が初めてです」と、特別展を企画した同館のトルステン・オッパー上席学芸員(52)は説明する。特別展は2年あまり前から企画されていたが、新型コロナウイルスの感染拡大で準備が中断し、今年5月に開幕にこぎ着けた。
落書きが語る人物像
ネロの治世下、ローマ市内をはじめ帝国内にあふれていたその胸像は、死後削られ、後の皇帝の胸像につくりかえられた。現代まで残るネロの姿のものは少ないが、特別展ではこれらを丹念に収集。家族や歴代皇帝の胸像や、関係者の遺物、その時代の社会を物語る工芸品や資料なども、広範囲に集めた。イタリアの各博物館所蔵品や遺跡からの出土品が、その多くを占める。展示コーナーの中ほど、母アグリッピナや3人の妻ら家族の胸像が並ぶ華やかな場所の隅に、あまり目立たない形で立てかけられた一つの展示品が、ネロの復権を象徴している。イタリア南部の遺跡ポンペイで出土した漆喰(しっくい)の壁だ。有力者宅の台所の一部だという。そこに、無造作に落書きが刻まれている。
皇帝が女神の神殿に足を運び果てしなき黄金の輝きを発した
64年にポンペイを訪れたネロをたたえる詩編だという。ネロの2人目の妻ポッパイア・アビナはポンペイの出身で、ネロもしばしばこの街を訪れた。ネロの死から11年後の79年、後方にそびえる火山ヴェスヴィオ山の噴火によってポンペイは火山灰の下に埋もれたが、そのお陰で普段なら消えてしまうはずの落書きが現在に伝えられた。ポンペイの他の落書きにも、ネロの名は多いという。また、ローマでは、いたずらで描かれたネロの似顔絵も残されている。実は、こうした落書きこそが、ネロに対する庶民の意識を示す。タキトゥスら歴史家が記した公式の記録とは大きく異なる人物像だ。「エリートによってつづられた公式記録がネロを悪者扱いしているのに対し、落書きは彼の大衆人気の高さを物語っています」と、オッパー上席学芸員は語る。
ネロが汚名を着せられたわけ
オッパー氏によると、皇帝としてのネロの業績は、税制・通貨改革や古代コンクリートによる街づくり、東方への領土拡大など、実際には多岐にわたっている。ネロの死から28年後、ローマではネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスと続く「五賢帝」の黄金時代が始まるが、その際に称賛された政策の多くは、ネロの治世に基盤が用意されたという。「もし事情が少し異なっていたら、ネロは偉大な改革者として語り継がれたかもしれません」なのに、どうしてネロは「暴君」の汚名を着せられたのか。一つは、タキトゥスらローマ帝国の歴史をつづった人物が、元老院と対立したネロに厳しい目を向けていたこと。タキトゥスは、自身も元老院議員を務め、元老院寄りの視点を持つといわれる。加えて、中世になってキリスト教が広がる中で、ネロはその弾圧者と位置づけられた。実際には、キリスト教徒は当時ローマにごく少人数しかおらず、ユダヤ教徒の一部だと見なされていたなど、状況がその後とは大きく異なっていたというが。「同じように暴君として知られた第3代皇帝カリグラは、在任中に殺害されました。しかし、彼はキリスト教との接点がなかったため、ネロのようには憎まれなかったのです」オッパー上席学芸員は、ネロを歴史の「被害者」だと考える。「彼は皇帝として若すぎました。家族の中にも支援者を持ち得なかった。当時起きた様々な問題は、ローマの社会が内部に抱えた緊張に起因し、ネロ個人の態度や政策とは関係ありません。もし彼が実際より50年遅く皇帝になっていたら、全く違う評価を受けたでしょう」ネロには、大火のローマを見下ろしながら竪琴を奏でつつ歌を歌っていたなど、皇帝にあるまじき逸話が残る。しかし、その多くは創作の可能性が高いという。出火の際にネロはローマにいなかったにもかかわらず、「火を付けたのはネロ自身」との話も信じられた。「現代のフェイクニュースと同じです。極めて一方的で、しかも政治的な目的に基づいていた」とオッパー氏はいう。ネロのイメージは、このようなつくり話が積み重なり、事実に取って代わったのだった。これは、歴史を学ぶ者に多くを考えさせる。ネロ悪人像の端緒をつくったタキトゥスは、世界中の生徒学生がその名を学ぶ歴史家中の歴史家。筆者も高校生時代に世界史の授業で習い、著書「ゲルマニア」を手にしてわかったような気分になったものだ。そのような高名な人物でさえ、歴史をゆがめる作業に、結果的に加担した。物事を客観的に評価し、記述することの難しさを、改めて思う。
「黄金宮殿」の再公開
もう一つ訪ねたのは、ローマ中心部の巨大遺跡コロッセオに隣接する丘の上にネロが建設した「黄金宮殿」(ドムス・アウレア)だ。これまでも一部が公開されていたが、長期間にわたって閉鎖して発掘と修復を重ね、範囲を大幅に拡大して今年6月、再公開。同時に、特別展「ラファエロと黄金宮殿 グロテスク様式の創案」が内部で開幕した。筆者は、再公開直前の内覧会に参加し、内部を見学した。「黄金宮殿」は、64年のローマ大火を受けてつくられた巨大施設。ネロの死後は地中に埋もれ、後世その上に「トラヤヌス帝の浴場」などがつくられたこともあり、いったん忘れ去られた。ルネサンス期に一部が発掘され、その壁に描かれた唐草模様風の曲線装飾「グロテスク様式」は、当時の画家ラファエロに大きな影響を与えたという。入ってみた内部は、高い天井の部屋が連なり、複雑に入り組んでいた。誘導案内がまだ十分整備されていないせいか、途中で迷いそうになる。壁の一部には曲線の文様が残る。地中だけに薄暗いが、かつては「グロテスク様式」を際立たせるよう採光が工夫され、光に満ちた空間だったという。「当時の画期的な技術に基づいた建物です。ネロは、宮殿を築いた建築家や都市計画家に、大火後のローマ再建も担わせ、防災対策を施した街を築きました」宮殿の修復を指揮したコロッセオ考古学公園のアルフォンシーナ・ルッソ所長(61)は、こう語った。
ルッソ所長もオッパー氏と同様に、ネロの業績を高く評価していた。
――ネロはどんな皇帝だったのですか。
「考古学的視点から探る限り、極めて有能な君主だったと考えられます。彼は、セヴェルスやケレルといった有能な建築家を登用して宮殿を建設するとともに、大火後のローマの街の復興にも努めました。災害に備えて道路を広く取り、柱付きの回廊を設けて家同士の間隔を保つという、合理的な都市計画でした」
――なのに、なぜ「暴君」と呼ばれるようになったのでしょうか。
「彼は、庶民すなわち下層中産階級を優遇する政策を展開し、改革を実施して、民衆に広く愛されました。彼らからの支持に依拠した政治を進めたのですが、一方で貴族階級や元老院とは対立したのです。だから、死後否定的に扱われたのです」
――ただ、母を殺害したり妻を死なせたりと、粗暴な印象は拭えません。
「この時代は、殺人も、そうかんも、権力闘争の一環でした。同じようなことは中世にもその後の世界でも起きたのです」
グローバル帝国としてのローマ
「黄金宮殿」は、その隣の円形闘技場コロッセオやフォロ・ロマーノ、パラティーノの丘の遺跡群とともに、ルッソ所長が率いるコロッセオ考古学公園の管理下にある。この中で最も有名なのがコロッセオだ。もとは「黄金宮殿」の庭の池だった場所に建てられたが、今や母屋の宮殿をしのいで、世界的な観光地となった。コロッセオの内部では、6月まで「ポンペイ紀元79年 ローマの歴史」が開かれており、閉幕間際に訪れることができた。「黄金宮殿」の公開と同様にルッソ所長が統括した企画。ネロと直接関係する展示物は少ないが、ネロと同時代を生きたポンペイの文化を紹介している。これを見て驚いたのは、当時の帝国の活動範囲の広さだ。地中海世界はもとより、欧州大陸各地から中東にも及ぶ。展示品には、インドからもたらされた胸像もある。当時のローマ帝国がいかに多様な地域とつながりを持っていたかがうかがえる。ローマは、グローバル世界の様々な文化と技術を吸収したからこそ、今日にまで伝わる伝統を残しえたのだろう。その帝国を若くして率いたネロとはいかなる人物だったのか。しばし想像した。(GLOBE+より、)

ただ、ネロちゃまは単純な暴君に見えなかったので、こんな説もあるので一概には言えないですね、キリスト教も初期の初期だからまだ信者がそれ程多くないし、ユダヤ教の一部と考えられ、言うほど大規模な弾圧が行われたかどうか、、多分、当時はユダヤ教はローマ中で嫌われてた、キリスト教はユダヤ教なかで嫌われいた??通報したのはつまりその…キリスト教は当時からしたらユダヤ教の中で異質だったからね、、分離して今に至ってますが、ネロちゃまの時は大火起こった事と、曲にもキリスト教に関わった事がのちの暴君を生み出したとも、弾圧は事実だから悪役に至ったかも。
34.ビースト ソドムズビースト/ドラコ―(SSR シークレット)
イラストレーター:ワダアルコさん


ドラコー(ソドムズビースト)の元ネタ
ドラコーは「大淫婦バビロン」が由来

ドラコーは「大淫婦バビロン」が元ネタのキャラクターと考えられている。出典となる新約聖書で「大淫婦バビロン」について描写された特徴が、ドラコーと一致する部分が多い。
大淫婦バビロンの史実・伝承
出典の詳細

大淫婦バビロンとは、キリスト教の新約聖書の一節である「ヨハネの黙示録」に記載された女性。大いなるバビロンなどとも言われ、ローマ帝国や反キリストなどを指すとされている。
大淫婦バビロンの容姿
大淫婦バビロンの容姿については、紫と赤の衣を身に纏い、金と宝石と真珠で飾っているとされる。また、手には自身の姦淫による汚れに満ちた、黄金の杯を持っている。さらに、大淫婦バビロンは赤い獣に騎乗しているとされる。獣は七つの頭と十本の角を持っており、ローマ帝国の7つの丘や10人の皇帝を示しているという。
黙示録の獣の詳細
大淫婦バビロンが乗っている獣は、黙示録の獣とも呼ばれている。黙示録の獣は他にも「七つの頭と十本の角を持つ赤い竜」が存在するが、描写が大淫婦バビロンの獣とは異なる。黙示録での大淫婦バビロンは、神の裁きにより獣に服を剥がされ、喰われる最期を迎えた。
ネロと大淫婦バビロンの関係
史実のネロは「大淫婦バビロン」と暗喩される

史実での皇帝ネロは人類史上でキリスト教徒を迫害した人物のため、キリスト教徒からの評価が低い。キリスト教徒はネロを獣の数字である「666」や「大淫婦バビロン」と暗喩することがある。ゲーム内でのネロのマテリアルでも、この史実について触れている。マテリアルでは「都市を滅ぼした666の獣、バビロンの大淫婦と同一視された」と言及されている。(神ゲー攻略より、)

もう少しロリでエロビーストが居た気がするのですが…原作に身ぐるみ剝がされるとありゃそうだ、ちなみに、そっちの方が人気、、、”ペルシャのザッハーク王=アジ・ダハーカ(ドラゴン)→ローマのドラコ→ブリテンの赤い龍 これすなわちアンラ・マンユ=サタンの創造物で眷属 サタンは人間の理想や意見、目標や希望、そしてその見解に大きな影響力を持つ神 その影響力は哲学体系や教育、そして商業にまで及ぶという 人間社会の思想、概念、思索、宗教はサタンの管理下にあり、サタンの偽りと欺きとから発生している サタンとは空中の権威を持つ支配者、この世を支配する者なのだ これはサタンが世界を完全に支配しているということではなくあくまでも主権は唯一神にある しかし、それは神がその無限の知恵において、この世で神が認めた境界線の範囲内でサタンが働くことを許していること ギルガメッシュやマーリン、それからソロモンのことは信用しきってはならない 「千里眼」とはどう考えても堕天使=悪魔グリゴリの権能がモデルでありあいつらの存在意義は試しと裁き つまりあいつらみんなサタンでサマエルでアザゼルなんや マーリンとギルガメッシュと因縁深いFateアーサー王の人生がどれだけクソゲーなのかがよくわかる”こんな事を書かれてましたが、様はドラコーいわゆるネロはサタンという事かな、流石 人類悪であり、最強のビーストだね、正、本当にネロが悪がどうかは分からない、はっきり言って他の人間やったであろうことをこの際だからと言って被されてに違いない、いち皇帝は権利は与えられるがやることは限られていると思う、不利益を講じた連中にこの際だから罪をかぶらされたに過ぎないかも。

新約聖書よもやま裏話 第22回 「教会の敵」ローマ!
獣、大淫婦、大バビロン
掲載号:2007年06月号
伊藤明生 東京基督教大学教授

先回は、パウロがキリストの福音を語る際に、ローマに「平和」をもたらした「神の子」であるローマ皇帝と繁栄、まさにローマ帝国にもたらされた「福音」を意識せざるをえなかったことを書いた。そして、どちらかといえば、ローマ帝国の肯定的側面を紹介したが、やはり、キリスト教会の迫害者という「反キリスト」的印象を拭い去ることは難しい。しかし、一口に迫害、弾圧と言っても時代と共に変遷があり、地域差があったことも事実である。
ネロ帝による迫害
ネロ帝の治世であっても、哲学者セネカが後見人として活躍していた時代は、まだ「ローマの平和」が続いていた。ネロ帝は母親を殺害し、セネカに自害を命じた後に、反キリスト的正体を露わにした。彼はローマ市に自ら火を放って、キリスト者の仕業にしてキリスト教会迫害を大々的に始めたとされる。しかし、そのころのキリスト教会迫害もせいぜいローマ市に限られ、帝国全土における組織的なキリスト者弾圧はまだ始まっていなかった。第一ペテロが執筆された年代を厳密には決定するのは難しいが、手紙の文面からは、せいぜい悪口雑言、嫌がらせを多少超える程度の迫害しか読み取れない。この手紙が書かれた当時も全面的にキリスト教が弾圧・迫害されるという事態にはまだ至っていなかったようだ。
ヨハネの黙示録
ところが、黙示録では、ローマ皇帝やローマ帝国は、悪の権化であるかのように描かれている。黙示録も執筆年代を確定することは難しいが、ネロ帝のあとドミティアヌス帝治世(八十年代)などに、帝国レベルで弾圧がなされた時代が背景となっているのかもしれない。 キリスト教弾圧のただ中、ヨハネは身柄を拘束されてパトモス島に流刑されていたと伝統的に理解される。そして、黙示録では「大バビロン」、「大淫婦」、「獣」という比喩で、ローマの悪魔的側面が強調されている。
大バビロン
かつて旧約時代にバビロン帝国は南王国ユダを滅ぼして、ソロモンの神殿を破壊して、人々を捕らえ移した。そして新約聖書の時代になって、六六年、ユダヤの民は、ローマの支配に背き、反乱を起こした。ローマ帝国は、この反乱を鎮圧するに手間どった。退役していたウェシパシアヌスが総司令官となって、はじめて鎮圧の兆しが見えてきた。ネロ帝の死、その後の内乱を経て、ウェシパシアヌスが皇帝となり、ユダヤ鎮圧軍の総司令官は息子ティトスに託された。エルサレムは長い包囲の末、七十年に陥落し、その際に神殿も破壊された。こういう意味で、ローマ帝国のイメージはバビロン帝国と重なりあう。
大淫婦
「大淫婦」とは、偉大な遊女のこと。男どもを手玉に取る魅力あふれる大淫婦。七つの山の上に座り、七人の王がいる。ローマ帝国の首都ローマ市は元来、七つの丘に築かれた町であった。ローマ帝国の富、異教の神々の魔力、不道徳でローマの男たちが誘惑される現象を、魅惑を秘めた女性、遊女として表現されている。
獣、ネロ皇帝伝説
ダニエル書の幻では、歴史に登場した複数の諸帝国が様々な「獣」と描写されている。「獣」は礼拝の対象偶像にほかならない。ローマ帝国の悪魔的側面が描写され、そして悪魔はローマ帝国として具現化している。獣の数字として六百六十六と記されているが、「ネロ帝」を指し示すようだ。ヘブル語で「ネロ」と表記するヘブル文字の数を足すと六百六十六になるからである。ローマ皇帝ネロは、最後には精神的に追いつめられて自害した。ただ、どこからともなく、まことしやかにネロ帝は再び東方から現れる、とネロ帝にまつわる伝説が生まれたようだ。悪魔的存在であるネロ帝が再来する、と怖れられた。こういう伝説を背景にして六百六十六という数字が用いられたのだろう。
小羊の勝利
地中海世界全土からぜいたくな商品の数々がローマ市に集められ、高貴な人々の生活を豪奢なものにしていた。黙示録に列挙されている商品は、金、銀、宝石、真珠、麻布、紫布、絹、緋布、香木、象牙細工、高価な木や銅や鉄や大理石で造った器具、肉桂、香料、香、香油、乳香、ぶどう酒、オリーブ油、麦粉、麦、牛、羊、馬、車、奴隷、人のいのち。   当時のローマの貴族たちの間で、大きな高価な真珠を酢に溶かして飲むという遊びが流行ったという。地上の権力、繁栄、富、異教、不道徳というものには常に人をまどわす落とし穴が隠されている。ローマ帝国、ローマ皇帝がイコール悪魔とは言わないまでも、悪魔の具現化として表現されている。だから、大バビロンは倒れる、いや倒れた。裁きの宣告が高らかに宣告されている。黙示録のクライマックスでは、小羊の勝利が預言されている。(月刊いのちのことばより、)

実は最初からネロの人類悪ビースト設定か決まっていたとしてますね、これみたらそりゃ…
ハンス・ブルクマイアー作の木版画(1523年)。マルティン・ルターが1534年に翻訳した新約聖書にて。大淫婦バビロンは、7つ首の獣(黙示録の獣)に騎乗する女性として描写されている

大淫婦バビロン(ヨハネの黙示録のアレゴリー(比喩))
大淫婦バビロン(だいいんぷバビロン)は、ヨハネの黙示録(キリスト教の『新約聖書』の一節、『黙示録』)のアレゴリー(比喩)。大いなるバビロンともいう。
概要
『黙示録』によれば“悪魔の住むところ”であり“汚れた霊の巣窟”である。女という隠語で表されておりきらびやかな装身具を身につけ、手に金杯を持つが、その杯は姦淫による汚れに穢されているという。大淫婦は殉教者の血を流すが、神のさばきによって滅ぼされる。
旧約聖書引用説
旧約聖書には、遊女やその取り持ち女を戒めたり、バビロン捕囚に関連してバビロン王について書かれた記述がみられるが、これに加えて都を遊女に喩える記述もあり(イザヤ書 1:21)、それらに影響され引用したものだとする説がある。
過去説
これが過去に起こったものとする立場では、堕落しきった女という隠語で暗喩されているものの正体はローマ帝国であり、彼女が乗る7つの首の獣はローマ帝国の7つの丘(もしくは7人の皇帝)を示しているとされる。ここで言うローマ帝国は古代ローマであり、キリスト教への迫害が強かったとされる時期のローマを指している。この時期にはカリグラ、ネロといった暴君の存在によりローマの退廃が指摘される時期でもある。特にネロ帝により、ローマ大火にかこつけてキリスト教徒が迫害された挙句、初代ローマ教皇・ペトロが逆さ十字架にかけられ、殉教に至らしめたためにこのような暗喩で示されることとなった。ユダヤ庶民の俗信によれば、アンチクリストはネロ、もしくはネロの姿で現れるという。
現在進行説
現在進行形の預言とし、警鐘を鳴らす立場である。 宗教改革者は、大淫婦バビロンはローマ・カトリックであり、教皇は反キリストであるとした。教会組織や祭祀が発展してゆく過程で、祭祀や慣習に古代バビロニア由来の偶像崇拝的な不品行、惑わしが数多く取り込まれることとなり、教会自身が破滅を導くバビロンの悪習を引き継ぐ者に堕ちているとした。
未来説
これが未来についての預言とする立場もある。ディスペンセーション主義の高木慶太は、ローマ・カトリック、リベラル・プロテスタント、世の偶像崇拝の教派が混在したエキュメニズムが、大淫婦であるとした。 14:8 「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。その不品行に対する激しい怒りのぶどう酒を、あらゆる国民に飲ませた者」。(Wikipediaより、)

これが原作ですが、初期のドラコーの絵柄がまさにこれだ、他の絵画では八岐大蛇怪物にまたがってるし、実は櫛名田比売の方が龍神もしくは蛇神ぽい???まあ、蛇神は女神が多しな、『モンスト』の櫛名田比売がまさにそれやし、前回のメドゥーサもその前のメリュジーヌも広域で龍神及び蛇神でしょう、わざわざ女体化したのはこういう事が、、、いろいろあって尾鰭が付いていると思われる。
ほんは暴君と狐神には…実質祭神二柱分のボリューム、初期には二柱した事もありましたが、ネロちゃま暴君だけど大人気だからね、ボリュームもそれなり、しかし、大淫婦バビロンは別の国では豊穣の女神さまだったりしてな。

↑↑は大人気ですぐに無くなってました。
最後に並べてみました、数は前回より少ないですが面白いラインナップやね、

特別編 7 ローマ皇帝ネロは何故 大淫婦バビロンと暗喩されるのか、​Fate/Grand Order ウエハース13​ おまけでした。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2024年08月15日 16時40分07秒
コメント(0) | コメントを書く
[ご祭神、神社等のいわれ] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.
X