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カテゴリ:BATON & OPINION
「東洋民族博物館」レポートを一旦休んでのお知らせです。
昨年のJR福知山線、尼崎脱線事故に関する 吉田恭一氏の手記、 2005年4月25日福地山線5418M,一両目の「真実」 「10章」 「11章」 「12章」 と、続けてアップされています。 (上記、標題部分のクリックでTOPへ、また、「○章」の文字部分をクリックで、新規アップの各章へジャンプ) あと、最終章を残すのみのようです。 事件・事故の被害者となってしまったマスコミ人として、また被害に遭われた一個人として、立場上、数々の葛藤があったことと思われますが、そのことを含めた心情までも、よくここまで書いてくださったと感謝して敬意を表したいと、僭越ですがそう感じました。 長い間、1週間に一度はチェックしていましたが、ここのところ数週間は私事に紛れてチェックを怠っていました。 新しい章がアップされる度にお知らせすることが、あの(いえ、「この」です・・)事故を風化させない為にできる、ささやかな、本当に小さなお手伝いと、密かに自分に責任を課していた筈の私なのに、事故後わずか1年を過ぎたところで、この体たらくです。 日々それぞれが抱える日常の中で、当事者以外の者は、ともするとこんなふうになりがちだと、そのことの反省もまた深く。 しばらくチェックを怠っていたことに気付いたのは、旅行記目当てに私が日参しているnotoshunさんのブログ「デジカメマイレージ日記」で東海村JCO臨界事故展示見学レポートを読んで、でした。 東海村の「あの事故」もまた、やはり、決して風化させてはならないものと思っていた筈だったから、です。 コメントにも生意気を書かせていただきましたが、私が30年以上にわたってコンピュータソフトの仕事をして来て一番深く学んだのは「技術」ではなく、「人間の不完全さ」だと感じています。 つまり「絶対」と言えるただひとつのことは、 =人間のすることに『絶対』はない= という、そのことです。 また、システムが巨大になればなるほど、そして個人的にチカラがつけばつくほど、ヒトは、基本的な目配り・気配りがおろそかになり、慣性で動きがちになります。 本当は、全体的な技術の目覚しい進歩は、個々人のチカラとの同期が取りにくくなっていくということなのに、現場担当者はそれを忘れて慢心という罠に陥ります。 それぞれがそれぞれの立場で、初心を忘れて慢心し慣性で動くようになった時、何重にも廻らされた事故予防の鎖は簡単に分断されて、そんな時に「まさかの事故」が起きます。 危険が予測される設備やシステムに、万が一の備えは当然のことですが、その万が一の備えさえも破られた時、その時の被害が地球的な規模になるような技術は、「絶対者」ではない人間は、やはり手をつけるべきではないし、それに気付いた時には見限るべきだと思うのは、あまりにも「婦女子的」な発想なのでしょうか? 「地球が100人の村だったら」のたとえ話、ご存知の方が多いと思います。 その100人の頂点ともいうべき生活水準を放棄することになっても、と、その覚悟を込めて、この婦女子的発想の持ち主は、言います。 同じ理想を追うなら、1/100の頂点の生活を享受するのを求めるのではなく、1/100で満足する自分でありたいと。 うん、私のローカル線好きは、こんなことにも関係があるのかもしれません。 これ以上の「日常的な速さ」って、本当に必要なのか? その速さを、本当に必要としているのは誰なのか? その速さのために、切り捨てられた「部分」は、本当に「部分」なのか? 個人のブログでこんなことを書いて、ひたすら虚しい思いでは、あります。 「吾、唯 足るを知る」 と掲げた東洋民族博物館、その創始者の 九十九黄人(つくもこうじん)大先生 ご存命中にお会いして、たっぷりとお話を聞かせていただきたかったと、つくづく。 「有限の人間の、たかが一生 知れたもの。 心 安寧(あんねい)に、気持ち良く過ごすに限る」 と笑う声が聞こえるような気がします。 [生活・趣味]ランキングに登録しています ここをクリックで1票です やや低調・・・どうぞ宜しくお願いしますm(_ _)m 次回、もうひとつ、タイミングを外したくない話題・・・ なぜか私が、ちょこっと縁ありの「大阪プロレス」、先日の日曜日、京都KBSホールで行われた「タイガースマスク」プロデュースの興行へ出かけてきましたので、その様子を! 当日、タイガースマスクがついに奪取したチャンピオンベルトが、私の肩に!(笑) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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