アイドルを探せ
と言っても、シルビー・バルタンではありません。元バレーボール全日本男子代表監督の松平康隆さんが、亡くなられたそうです。松平さんの全盛時代、わたしもバレーボールの大ファンでした。テレビのニュースで森田淳悟さんが松平さんの思い出を語っておいででしたが、60歳を過ぎた森田さんには、日体大から日本鋼管に進まれたあの頃の面影がしっかり残っておいででした。現在は母校日体大の教授だそうです。一人時間差の開発者としても有名ですね。その森田さんの、大学リーグの頃からのライバルで中央大学から松下電器に行かれた横田忠義さんと、日本鋼管⇒サントリーの大古誠司さんの三人のアタッカーを柱に、専売広島の世界一のセッター、天井サーブで会場を沸かせた猫田勝利さん、Bクイックの名手でいぶし銀の存在感、現日本バレーボール機構会長の木村憲治さん、ミュンヘンオリンピックの準決勝、対ブルガリア戦で日本チームを奇跡の勝利に導いた南将之さん、ガッツで引っ張るドライブサーブの中村祐造さん、チーム一番の長身、佐藤哲夫さん、そしてわたしの憧れのプリンス嶋岡健治さん。 。。。 。。。あの頃の全日本男子は本当に強くてステキでした。スポーツとは全く無縁の少女だったわたしですが、バレー部の友人と一緒に、大学リーグや実業団リーグの試合を見に、また、外国チームの中では一番好きだったチェコ、あのバレーボールの職人集団?と全日本との試合を見に、代々木の東京体育館には何度も通いました。そうだった、全日本バレーボール男子チームがわたしの青春時代のアイドルだったっけ、と松平さんがなくなったというニュースを見て、思い出したわたしでした。実は、去年の暮れ、同期生との忘年会で、隣に座った男子(オヤジと読んでください)に、いきなり学生時代のアイドルは誰だった?と聞かれ、誰も思い浮かばなかったのです。彼が、若大将シリーズがどれほどかっこよかったか、加山雄三さんにどれだけ憧れたかを熱く語り、やや呆れつつ、それを聞いていた時の事でした。その時は本当に思い浮かばず、ようやく出てきたのがポール・ニューマンとジュリアーノ・ジェンマ。日本人はどう考えても浮かんできませんでした。「え~~、ホントかよ。誰もいないなんてあり得ない だろ。加山雄三は、どうだったの?」あまりのしつこさにだんだん腹が立ってきて、親のお金を使って好き放題遊んでる男の子なんて最低だと思ってた。ああいうタイプの男に憧れる女の子はミーハーかおバカのどっちかって、相場は決まってるモンだったのよ!と八つ当たりコメント。どちら様にも失礼いたしました。今でこそ、なかなかシブイ素敵な男性ですけどねえ、正直な話、若い頃のあの方には何の魅力もありませんでした。話は松平さんの頃の全日本男子に戻りますが、松平さんは、プロデューサーとしてもなかなか有能でいらしたようで、男子バレーボール人気は彼の仕掛の結果でもあったそうですね。ということは、わたしなど、うまうまと載せられたクチであったわけで、他人様のことをミーハーだのおバカだのと言えたギリではありませんでした。三本柱のエースは特に人気がありましたが、中でも森田さんは一番人気、続いて大古さんだったように覚えています。わたしのアイドルは、ニックネームもプリンスの嶋岡健治王子様でした。187cm(あれ184cmだったかな?)の身長にぶっとい太もも、華麗なるフライングレシーブの嶋岡さんは、童顔の中央大学バレーボール部員でした。今思えば、わたしはどうもああいう感じが好きなようで、高校生の頃、人気だったGS,タイガースでもわたしの贔屓は森本タローさんでした。お二方の顔をご存知の方、なんとなく同じタイプとお思いになりませんか?でも、ポール・ニューマンとジュリアーノ・ジェンマは全然違うタイプですけど。。。って、細かい事はいいじゃないですか。ね。さて、また、話はバレーボールに戻って、あの頃は春高バレーはまだなくて、少女たちのあこがれは大学リーグと実業団リーグで活躍する選手たちでした。嶋岡さんが日本鋼管に入社してからはわたしの贔屓はNKKになり、興味は実業団リーグに移りました。テレビ中継などもまだあまりなくて、バレーボール雑誌を買っては一生懸命読んで、ルールや用語を暗記し、出来もしないクイックや時間差攻撃、ドライブサーブのやり方を覚えたりしましたねえ。あれは一体なんだったのでしょう。試合を見に行っても、コートでおとなしく(はなかったけど)観戦するだけ。一度、立って、コートエンドの方向から観戦していたら、いつの間にか隣に横田選手が立って試合を見ていて、驚いたことがありました。ドキドキしているのに、気が付かないふりをして、彼が立ち去るまでずっと前を向いていて、いなくなったときは、がっかりしたのに、これで首を動かせるとホッとしたものでした。横田さんのトレーニングパンツの腰がわたしの肩の辺りにありましたっけ。今ならきっとサインの一枚くらいお願いしたでしょうに、なんだかよくわからないものにこだわって固まっていた幼い自分に、微苦笑が込み上げます。高校時代は受験も含めてそんなに勉強した覚えがないのですが、大学は、通学が往復3時間半かかったのと文科系なのに必修のほとんどが1科目2単位で、履修科目がやたらに多かったのとで、特に1.2年次はとても忙しかったことばかりが記憶に残っていてわたしってガリ勉ちゃんの暗い学生だったかも?と忘年会で彼の質問に答えられなかった自分を自分でも疑いかけていました。でも、あー良かった。楽しい時間もあったんだっけ。と思いだしました。笑ってしまいますよね。けど、ちょっとホッとしました。