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テーマ:婦人科の病気(1166)
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写真は、お手伝い用のエコたわし(アクリル毛糸、かぎ針10号、タンポポのモチーフの一部を利用)と、完成程遠いバラのベール。 余計なもの編んでいるから、製作が進まないのでありまするね。 しかも、子供、お花のエコたわし拒否。 イラナイ… さて、婦人科のことですが。 産婦人科の基礎知識「デルモイドのう腫」 らしき腫瘍を取り除くことになりまして、近日またいくつか検査をします。 それから入院、手術ということが、ついに決定。 知らせる範囲やタイミング、準備の内容とタイミングを、 祈りつつ、しかし相変わらずオタオタと、考え中です。 主に委ねている方なら、「しっかり建てられている」でしょうに… まったくもって、わたくしは、砂上の楼閣ならぬ、 砂上の筵小屋ですよ ああ、もう、ここを偶然見てしまった貴方様、 どうぞ、祈って、祈って 話変わって… カトリック生活2009年10月号に、日本のカトリック教会におけるヴェールについての解説がありました。 明文化した規則は無く、慣習であるとのことでした。 ただし、この解説は、「ヴェール無し(忘れたとき)で聖体拝領は許可されますか」という、 日曜学校の子供からの質問に答える形。 現在のカトリック教会において、かぶる「慣習」が廃れつつある件については、 全く触れられていませんでした。 とはいえ、「頭を覆う」ことは推奨する論調です。 これからは、勇気を持ってベールをかぶろうと思います。 被りつづければ、子供も引っ張らなくなるかも知れません 若いころ、ベールをかぶっていたら、 「いまどきはベールなんて被らない」と複数の信徒、修道者、司祭に 注意されたことがありました。 (現在通っている教会では、このような事はありません。 時代の流行というのも、あるでしょうけれども。) 「形より、心、生活」というのは、聞こえはいいですが、 それは、形が完成に近付いている方のさらなる飛躍でなければ、 「おもいて 学ばざれば すなわち くらし」 ではないでしょうか? わたしなぞは、怪しまれてばっかりのダメ信徒です。 しかし、罪びとの為に来られた主にたいして、 頭を覆ったり、ご聖体訪問をしたり、 崇敬と感謝を示すのは、悪いことではないはず。 そのお母様にろうそくを差し上げたり、 ちょっと会釈するのだって、 迷信や自己満足ではないはずです。 今回の短い解説記事を読んで、ベールの黙想が一歩進みました。 これからは、形も大切に、伝統的な既成の祈りも大切に、 そのうえで、生活の中での祈りも学んでいきたいと思いました。 この方法は、観想的生活へと導き、天の国の建設に貢献するという目標があります。 どの手引き書にもそう書いてあります。 ですから、子供や祈りの初心者(私)が、まずは、 自分などよりずっと素晴らしい霊的直観に満ちた「伝統的な口祷」をするのは、 祈りのよい練習になると思います。 まして、主の祈り(天にまします、パーテル)は、主の教えてくださったお祈りですもの。 心なく天にまします…より、心をこめ感謝に満ちた生活が祈り。 それは確かに正論ですが、 まだ天にましますの習慣が染みついていない段階の、 子供や勉強中の方々にもこの指導をする場面に出くわすと、 誤解を生みそうな気がしてしまいます。 教えてらっしゃる方々も、いろいろ工夫なさるのでしょう。 本質が形式より大切、ということを伝えるために、 上記の教え方は、とても重要だとは分かっています。 形も、中身も、一度に身につけていくのは、とても難しいことですね。 特に、形をほとんど持たない、個人的な祈りの生活というのは、 非常に困難を伴います。 出来ごとに聞く、などと簡単にいっても、 真に主のご計画、み旨を「絶えず、全てにおいて」見出していくのは、 並大抵のことではありません。 聖人の伝記や手紙、言行録、聖書の使徒書以降を参照しても、 それは解ります。 われら凡人には、なおのこと… 34週祈りの旅も、いつのまにか6週目。 言動は全く改善されないように見えますが、 私が 今 生きて ここに いる ということに、素直な感謝の念を抱けるようになりました。 少しづつでも、毎日続けることが大切と、解説に書いてありました。 本当にそうですね。 この祈りの旅のもととなった、「霊操」を編みだした 聖イグナチオは、素晴らしい方ですね。 少なくとも、私にはこの方法があうようです。 心の大掃除、僅かづつながらも進行中。 わが家の大掃除は、もうちょっと劇的に進行しないと、 家族からクレームが殺到してしまうのですが… お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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