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カテゴリ:老いについて考えるコト
1973年4月に、現在の街に東京より転居しました。
先祖代々のお墓のある家(この地方では母屋、関東では本家)ということは、実家と同じでしたが、前回 記したように仏教ですが、宗派が違い、しきたりも決め事も天と地ほど違いました。驚きましたが、宗派が異なればそれもありか・・・くらいの関心で・・・「ウチの方はそうじゃないわ。」「へええ、そうなの?」というくらいで、34年めです。 このごろ、やけに気になりはじめていました。気になりだした原因は、昨年末に天使になったシュンタのお墓に朝晩お参りをするようになったからでしょう。 気になりだして、半年、そしてこの夏のお盆の帰省。 正直、疲れます。名古屋まで30分ー新幹線「のぞみ」90分ー東京発「わかしお」90分 合計 3時間半ですが、乗り換えに必要な時間を加えると、最低4時間半はかかります。 この暑さのなかの移動は大きな荷物を持って、ドタドタ・・・って感じでした。 「なぜ、お盆にお墓参りをしなくてはならないのか?」 「そもそも、お墓参りとは、なんぞや」 常識では充分理解していることですが、雑踏の中を歩きながら 改めて考えました。 みなさん、朝なのに後ろ姿が疲れています・・・ 亡くなった親族に、自分の現在在ることを、感謝する。近況を報告し、今後を見守っていてくれ、とお願いする。 そんなことは、常識のうちであり、さらにいうならば、私のように、お墓にたどりつくのに、一日がかりの状況だと、お墓も仏壇もなくとも、亡くなった親族に、心のなかで語りかけたり、天空に向かって手を合わせたりということは、行っているわけで・・・どこにいても、先祖の霊に対する礼儀は欠かさずに暮らしていけるわけで・・・ いつでも、お墓に行きたいな、と思うときにいけばいいじゃないかなあ、こんな人混みの中で、倒れたりしたら、大変だよね、みっともないし・・・墓参りに出かける途中で、倒れたなんて・・・ね・・・ 東京駅の乗り換え通路です。 さて、老いた母を訪ね、3,4時間ほど話しをし、(耳が遠いので、私はせっせと、メモ用紙にサインペンで書き、母は、それを読み、普通に答える、という会話です) 久しぶりにお墓に出かけました。 生えている夏草をとり、お墓の掃除をし、お花を替え水をあげ、お線香をあげました。 あえて、提灯は持参しませんでした。 「私がこのお墓を護る人ではないからね、お父さん!! もういいよね、お父さんは、私の部屋で写真をおいて、お水とお線香はお話するときにあげてるもんね、13年間、ずーとそうしてきてるから、これからも同じだからね。」 父に語りかけながら、昨年まで、かろうじて3日間墓参りをしていたのですが、それを止めることにしました。 私は遠方に嫁いだ娘になることにしたのです。 実際そのとうりですし、老いた母の代わりに私がしていたことで、その私が老いに入ってきているのですからね、とご先祖にお話をしてきました。 帰りの新幹線の中で、考えていたことは、東京に暮らしている私の兄のことでした。そして、お墓というもののこと・・・ 兄はお盆は混んでいるからと、かなりずらした日にお墓参りをする人です。それでいい、と私も思っています。 でも、私たちの世代がお墓に入るころ・・・近づいてきていますが・・・になると、お参りする人のいないお墓がとてもたくさんになるような・・・ お盆が終わって、すぐにお彼岸がやってきます。 私は、なぜ、お墓を人間が必要としてきたか、そのお墓と、宗教とは、どこでつながるのか、とか、とか・・・浮かんできた疑問を納得のいくようにきちんと調べてみたい、と言う気持ちになっています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
Sep 5, 2007 02:10:16 PM
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