生きているとは
今日のニュースで、安楽死について考えさせられた。フランスの方で、顔など周囲が悪性の腫瘍におかされ、余命数ヶ月となったいま、安楽死を望んだが、フランスでは合法化されていないので、裁判に訴えた。しかし却下。2日後自宅で自ら命を絶った。ある医師は云う「命を守るべき医師に安楽死をせよと言うのは納得できない」この医師は何十年も長期療養している人たちを診てきた人。生きているとはどういう状態を云うのだろうか? 心肺停止状態ではないことが、生きているといえるのだろうか?すくなくとも、現在の社会通念上はその通りだ。心肺停止は体が死んだ状態を指している。(心はどうであっても) 人はいずれは死ぬ。おおよそ日本人なら80年前後。長くて100年。10代の人は、70年後のことだし、50代の人は30年後のこと。死に向かって人は生きているけれど、そこでは、安楽死を多くの場合望まない。いかに健康を保持するかを懸命に模索している。それは悲しいまでも悲壮なほどに。(まあこれはどうでもいいこと) では生きているとは「少なくとも死に向かってはいるが、それは漠然としたことであり、死に対して距離を置いて話せる、見つめる、考えることができる状態」だ。 だから、余命数ヶ月、数年など限定された状態に向かっていき、なおかつ心が生きる望みを見出しえなくなった状態は、生きているとは云えない・・・・のではないだろうか?(ここは?で) たとえば、子どもの死を乗り越えられない状態の時を振り返って「あの頃は死んだように・・・」という回想録を読むことがある。つまり体の死と心の死があるのでは?そしてガンなど難病におかされ死を待つばかりの状態になったとき、体は生きている・・・心肺は活動しているが心は停止状態であると。 生きているとは、体も心も活動している状態。だから安楽死は、心が体の機能を止めたいとしていること。それは、心の機能までも止めることになるけれど。美しいままで