朝からてんこもり・・・利他
MBSラジオ朝5時からの”朝からてんこもり”会員カードが出てきて、読むと利他・・・ 『利他主義(りたしゅぎ)とは、自己の利益よりも、他者の利益を優先する考え方。 対義語は利己主義。 利他的行動(りたてきこうどう、英: Altruism)は、進化生物学、動物行動学、生態学などで用いられる用語で、 ヒトを含む動物が他の個体などに対しておこなう、自己の損失を顧みずに他者の利益を図るような行動のこと。 理想的には、利益は適応度で計られる。行動の結果だけで判断され、目的や意図は問わない。(電子辞書より抜粋)』 私の考え・・・・・・・・・・・ 「自己の損失を顧みずに他者の利益を図る」例えば、アウシュビッツにおけるマキシミリアノ・コルベ, 聖職者。連帯責任で餓死刑に処された被収容者の身代わりとなる。 初めに断わっておくが決して私は、コルベ氏の行動はできない。 コルベ氏のようなことが、「利他」だと云えるかもしれない。しかし私にはそうは思えない。 コルベ氏は、表面上身代わりになって亡くなったのだが、彼は生きて、聖職者として未だ生きている人の心の支えになることもできた。がそれでは自分が生きている意味がないと判断した。 例えば昔話で、偉いお坊さんが山道を歩いていいて、谷底を見ると飢えた虎がいた。飢えているのか、かわいそうに(と言ったか思ったか?)身を投げた。 駅のホームで、知らない人が転落した。電車が入ってくる。死ぬかもしれないその時、自ら助けるべく・・・・ などなど、自分を犠牲にして他人を助けるのは、愛だとか素晴らしいことだとか思われている。 コルベ氏は、その場面で自分が生きていく、生き続けることが許せなくなったのではないのだろうか。美談としては身代わりだが、実は聖職者として人が殺されていくことを止められない、刹那さ、辛さ、悔しさ、情けなさ、そしていっそ自らが・・・偉いお坊さんもしかり。動物といえども飢えて苦しんでいるのを何もせずに見過ごす辛さ、悔しさ、不甲斐なさ、なればいっそ・・・ 駅のホームの場合は、衝動という面もあるが、総じて私が想像するのは、人が動物が苦しんでいる、悩んでいる、その場面を見過ごしは出来なくなってしまうある種の心理状態になる時がある。(決してパニックだとか迷いだとかではなく)苦しんでいるその状況を、見過ごす、見放す、ことによって自分のこれからの人生に、意味が成さなくなってしまう。それに一瞬だが気がつくのです。そして・・・・ 私なりの結論は「利他」とは、自分の身を犠牲にして、自分の心が生きていること。 蛇足だが、とある宗教系のホームページにも、「利他」のことが書かれてあったので抜粋します。 『利他心というのは、見返りを求めず、すべての魂・生き物に発せられる愛だと思いますね。(ひかりの輪 代表より抜粋)』 この文章を読んで、違和感というか「ああ、この世界とは相いれ会えない危なさがある」と直感しました。 そうそれは、こんなにも安易に、「愛」という言葉が書かれているからです。相変わらずの団体ですね。