カテゴリ:北朝鮮拉致問題
2009.3.26 会連続集会44・金賢姫氏と語ったこと p1/6 ※今回は現場で必死に書き留める速記は止めて、録音機を持っていって聴き入りました。 録音をもとに文字起こししましたので公開します。ただし、録音が不明瞭で完全に文字 起こし出来なかった部分もありますが、大体発言通りですので、参考にしてください。 すべての拉致被害者を返せ! 北朝鮮の不誠実な対応に追加制裁の発動を! =================== 金賢姫氏と語ったこと 東京連続集会44 =================== 平成21年(2009年)3月26日 木曜日 午後6時半~8時半 友愛会館9階(芝公園)にて 飯塚繁雄氏、飯塚耕一郎氏、西岡 力氏、増元照明氏、横田早紀江氏 洪 ●(=榮の木を火に)ホン・ヒョン先生(早稲田大学客員研究員) --- みなさん、こんばんは。 司会・進行、救う会の平田でございます。よろしくお願いします。 きょうは44回目の連続集会になります。 ご存知のように、先日韓国の釜山で、飯塚繁雄代表が金賢姫さんと面会しました。 きょうはその報告をしていただくと共に、西岡代行に解説をしていただきます。 耕一郎さん(飯塚氏かつ田口八重子さんの息子さん)は仕事のため、遅れて参ります。 それでは最初に飯塚繁雄さんからお話をお願いします。 ■飯塚繁雄氏のお話 こんばんは。 色々とありがとうございました。報道でも出ているように、金賢姫さんと面会をしたことについて報告させていただきます。 全部が全部、お話できないと思いますが解らないことは後でお訊きいただくということで(お願いします。) 今回この金賢姫さんとの面会が実現できたのは、以前から私たちは会いたいという意向を示してはおりましたが、今回、韓国の外務大臣と日本の外務大臣おふたりのお話し合いの中で、調整したところ合意がなされたという経過があります。 また、韓国の政権がノムヒョンからイ・ミョンパク政権に変わったことで、拉致問題に対しても同じ方向に向きつつあるということにあります。これはあくまで韓国政府と日本政府が相当に事前に準備をして間違いが無いように非常に気を遣っていただいて、計画から段取りまで相当多くの方のご苦労があったと私は感じております。 もちろん、救う会をはじめ、皆さんの応援があったから(実現できた)と思っています。 今回(の話では)どうしても、金賢姫との関係で飯塚家(田口八重子)の話が主になってしまいますが、彼女の方としても以前から私たち家族に直接会ってお話したいという意向があったようです。 実を言いますと、(金賢姫さんは)韓国に来て大韓航空機の事件を先に証言し、日本語教育に関わった田口八重子のことも話が出ていましたが、その後で、田口八重子と過ごした20ヶ月のことを早く家族に話し伝えたいと思っていたようです。そういう意味ではすべてがそういう方向(今回の面会実現)に向いていたということと、それができたということを私たちは非常に感動しております。皆さんに感謝しています。長い間彼女との面会も望んでいたし、何通かの手紙も出したし、そういう経過もありましたが、今回ようやく面会できたことは拉致問題に関する歴史的な1ページとも思えます。とても感動して帰ってきました。 ★マスコミの多さ、警備の厳戒さに圧倒される しかしまだ彼女のほうも全く自由の身ではないようで、警備が相当大変でした。私たち(息子と2人)自身もしっかり警備していただいて安心していたわけですけれども、警備の凄さ、マスコミさんの数や雰囲気には相当ビックリしました。 飛行機から降りて出るとき、マスコミさんは、150人くらいはいたと思います。しかも韓国警察が盾を使って、マスコミが私たちに近寄れないように警備をしてもらい、その間を縫いながらバスに乗るという感じでした。 バスに乗ってからも、いわゆるパパラッチというのでしょうか、バイクで近寄ってきたり、ワゴン車のサンルーフからカメラを構えて寄ってきたりしていました。ホテルに着いてからも大勢のマスコミをかきわけながら、やっと玄関にたどりついた状況です。体格の良い警備の方が5人くらいで周りを囲んで護ってもらうこともありました。このように非常に厳しい警戒態勢のもと、多くの方の尽力により実現できたことと感じています。 ★面会場所と現場の様子について 釜山の国際展示場、というより会議場で面会しました。 予定の面会時間は1時間半と限定されており、最初はもっと時間が欲しいなと思いながらも、決められてしまっている中で彼女との対話を始めたわけです。 面会場はちょうどこのくらい(きょうの集会が行われている部屋・150~200人くらいの部屋)だったでしょうか。正面に金屏風があり、中央に丸いテーブル、テーブル上に花が飾ってあり、中央に金賢姫さんそして両脇に私と息子で並んで対話しました。 韓国側の警備兼通訳の人が傍についており、私たち日本側も通訳の方がついてくれていました。 このような状況の中で、最初会った時フォトセッション(3者がマスコミの前でテレビカメラ等に向けて写真を撮るスタンバイ)があり、そこへ私たちが先に入室し、その後に金賢姫さんが入室し、初めてその場で実物の金賢姫さんを見たわけですけれども、感激しました。 壇の上に上がり、まず私のほうから「本当に逢えてよかったです」と言うと、「ありがとうございます」と握手をしました。そして彼女は「私が先にご挨拶すべきです」と言いました。挨拶は5分しかないので、まず「これが息子の耕一郎です」と紹介しました。すると、彼女は耕一郎の顔を見て涙をあふれさせ「抱いてもいいですか?」と言い、報道写真にあるような場面となりました。 私も非常に気が動転していましたが、彼女の顔は以前から報道で見知るところでしたが、あまり変わっていないなと思いました。歳は47歳になりましたので若干細身になっていますが、とてもきれいな方だと思いました。 先ほども言いましたように、彼女は早くから田口八重子のことを家族に話してあげたいと思っていたようで、面会が始まってから約45分間、彼女のほうがしゃべりっぱなしでした。耕一郎や私の顔を見ながら、田口八重子との20ヶ月の暮らしを細々とお話いただきました。 大筋では彼女の著書『忘れられない人』そのままの内容だが、直接本人の口から聞くことは私も耕一郎も相当の感動でした。彼女は優しい表情で時折微笑みを見せながら逐一田口八重子とのことを説明してくれました。彼女は以前、耕一郎の顔をNHKのBS放送で観たそうで、非常に八重子に似ていると、とくに目がよく似ていると言っていました。彼女いわく、田口八重子は西洋的な美人だと言っていました。(私はそう思わないのですが(笑))向こうから見えればそう見えたのかもしれません。やはり彼女が一番気になっていたことは、田口八重子がまだ乳が出る状態で北朝鮮に連れてこられ、乳が張った状態で夜痛くて絞っていたとのこと、そういうこともあったようで、食事も彼女とは好みも違ったようで、食事のときも息子に逢いたいと言っていたようです。もちろん、2人の子供を置いて連れてこられたのだから母として当然辛かったことと思います。 向こうで教育に関わっている間はお互いのプライバシーを話してはならないという上からの命令もあり、そうはいってもずっと一緒に居れば少なからずお互いに名前を呼び合ったりしていたそうです。八重子のことは恵ちゃんと呼び、金賢姫のことは玉ちゃんと呼んでいたそうです。恵ちゃんというのは、八重子につけられた朝鮮名の漢字からそう呼ばれたのではと思います。 「リ・ウネ」というのは、後で出てきますが、工作用の名前で仮名だといっていました。誰も八重子のことを「リ・ウネ」という名前では把握していないとのことです。生活の自由はなかったけれども、酷い労働をさせられるようなこともなかったようです。一般に言われているように、北朝鮮は外国人には特別扱いで待遇も良く一般の人よりはましな扱いをしていると言っていました。だから飢え死にしたりすることはないと言っていました。どういうわけか八重子は腰痛になっていたとのこと、日本に居る時は聞いたことはなかったが、酷い腰痛で915病院(特別な人が入る病院)に通っていたそうです。招待所で日本のビデオを見たようですが、その後で自由主義(自由行動)をして帰ったこともあるそうです。それが思い出に残っているとのこと。 2009.3.26 会連続集会44・金賢姫氏と語ったこと p2/6 へつづく。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年04月13日 14時01分11秒
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