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2009年04月13日
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カテゴリ:北朝鮮拉致問題
2009.3.26 会連続集会44・金賢姫氏と語ったこと p2/6


(飯塚繁雄氏のお話つづき)

★田口八重子さんの安否・確認情報について
八重子の安否については、会談の中では3回か4回、絶対生きていますよ、という言葉をあらわしていました。安否情報については、当時朝鮮名で「コ・ヘオク」という名前をつけられたようで、それは金賢姫も知っていたようで、「リ・ウネ」は明らかに工作用の名前であることが伺われました。

83年に八重子と別れてから何ヵ月後に、指導員が「顔だけみせてあげる」と言い、市内に行く途中で八重子の顔だけ見たことがあると言っていました。

85年の1月に海外実習から帰ってきてスッキと合流したときに、スッキは、84年末に八重子とめぐみさんと3人で市内から遠く離れた招待所で一緒に生活をしていたと言っていたそうです。彼女いわくそこは電気事情の悪いところでとても寒く、服を何枚も重ね着していたとのことです。そのときも八重子は結婚していたという事実は無かったそうです。

85年に八重子が運転手と喧嘩をしたという話がありますが、その時も結婚していなかったとのこと。

87年1月に(金賢姫さんが海外実習の)マカオから帰ってきて、2月から10月にかけて招待所に居たが、2月か3月にかけて、運転手から、田口さんはどこに連れて行かれたのか解らないと聞いたそうです。言葉が不正確なので明確ではないが、八重子がどこに連れて行かれたのか、場所がわからないようであった。

金賢姫さんは、86年に招待所の人同士で結婚させたという話を人伝てに聞いたので、田口八重子さんも結婚してどこか他の場所に住んでいるのかもしれないと思っていたようです。運転手さんというのは招待所をぐるぐる廻っているので、どこの招待所に誰が居るか、どういう状態かを把握しているらしい。その運転手が知らないというので、招待所ではないところにいるのだと思ったそうです。上からの情報よりも生活に密着した(招待所のおばさんや病院の看護婦、まかない)たちの言うことのほうが情報として確かだとのこと。その中でも誰かが亡くなったとかいう話もなかったとのこと。結婚させられた被害者の中には中国人も居たようです。


★拉致被害者を工作員にしようとした北朝鮮
ヨーロッパ人の話も少し出たが、工作員として教育したが失敗したとのこと、外国人は工作員には向かない、拉致被害者本人は工作員にはならないということが解り、拉致被害者を工作員教育することはやめたそうである。

87年2月か3月、めぐみさんが韓国人と結婚して娘を産んだという話も、横の情報(指導員ではなくて生活に関連する人脈)から得たそうです。

以前、蓮池薫さんから、八重子が「テキコウチ」へ行ったという話を聞いたことがあるので尋ねてみたが、テキコウチという固有名詞は無いらしい。いずれにせよ招待所ではないところへ連れて行かれたらしい。

先ほども少し話しましたように、(金賢姫さんは)八重子のことを話してあげたいという気持ちが強くあったし、積極的に拉致問題について活動したいと思っていたようです。しかしながらここ数年自分の事情が悪く(憶測だがノムヒョン政権下での自由がなかったことだろう、監視も厳しかったと思う)、NHKの放送でも伝えられたように身動きがとれなかったのだと思う。


★金賢姫さんの現状
彼女も結婚して子供(女の子)が2人おり、自分も母親になって初めて家族という重要な単位を認識し、工作活動をしていた期間は無駄に過ごしてしまったと思っている、今が自分の本当の姿だと感じているようです。当時の八重子の気持ちがさらによくわかるようになったと言っていました。

彼女は母親が北にまだ居る。だから私たちと同じように母親に会いたいという気持ちも強くある。私に対しては耕一郎を見ながら「こんなに立派に育てていただいてありがとうございます」と言っていました。八重子が帰ってきたときにきちんと成人した息子を渡してあげたいという気持ちです。

私たちが出した手紙についても、彼女は受け取っていないといっていました。出したという話は聞いていたようだが受け取っていないとのこと。私も2004年頃に手紙を出したが、相手が受け取らなかったといわれて返されたことがある。これはたぶん管理する側が抑えたのだろうと推測できます。


★「(八重子さんが帰るまで)私が韓国のお母さんになります」
彼女は何回も(耕一郎に向かって)「お母さんは生きていますよ」と話していました。もちろん耕一郎に対する励ましの言葉だと思うのですが、ぜひ希望を持って欲しい、そして感動的なことに「八重子さんが帰ってくるまで自分が韓国のお母さんになってあげます」と耕一郎に言いました。次回は八重子も含めて4人で再会したいですね、と言っていましたけれども、日本の拉致問題に対する取り組みについても全部知っているので、積極的に協力していきたいという意思表示ははっきり言っていました。日本だけではなくて韓国人の被害者もいるし、韓国の現政権では戦時中の拉致被害者や脱北者なども含めた問題に取り組むという政策も挙げているので、金賢姫自身にとっても良いことだと言っていました。ですから、今後も協力を惜しまないという話につながっているのだと思います。


★解決の為に、どうしたら…
解決の為にどうしたらいいか、特にこちらから問いかけたわけではないが、彼女いわく「北朝鮮の自尊心を活かして閉ざされた心を開く方法を考える」ことだと、そうすれば奇跡は起こると言っていました。北朝鮮は自尊心を傷つけられるのが非常に嫌だということなのでしょうね。私は単に、北朝鮮にちやほやしてお願いして返してくださいと言うのではなく、自尊心を上手く利用した知恵を働かせることなのだと思いますが、彼女の言ったことなのでそのまま伝えましたが、45分間、話しながら時折写真や本を見せたり説明したりしていました。


★短い45分間の終わりに
私たちから彼女へ渡したものは、私が書いた『妹よ』という本、耕一郎の監修による漫画『母が拉致されたとき僕は1歳だった』、政府発行の拉致問題解決へのパンフレット(青い表紙の)、特定失踪者調査会で出しているポスター、めぐみさんはじめ拉致被害者が載っている写真集、そして以前金賢姫氏が日本に行ったら東京を観光したいと話していたことから、耕一郎が東京の観光案内の本と沖縄のガイドブックを、他に個別の連絡用に私の名刺2枚、耕一郎の名刺を渡しました。

最初のセッションではおみやげとしてチーズケーキとハンカチーフを渡しました。八重子が好きだった曲がはいったCDも渡しました。沢山渡したので彼女がそのまま自宅にもって帰ってくれればいいなと思いましたが、実際はどうだか解りません。
こんど日本に来てくださいといいましたが、「そうですね、ええ」という感じで明快な返答はありませんでした。今後の課題はあると思うが、今回は大きな出来事だと思う。


★この面会を今後に繋げて
八重子の様子のみならず、今後これがきっかけになって韓国政府やなんらかの形でつながっていかなければならないと思っています。しかしながら警備が大変で簡単には逢えないなという実感もある。色々なルートで模索していくしかない。彼女はまだ色々なことを知っていると思う。長く北朝鮮に居たのだから、そういう意味では色々な情報をこれからも伝えて欲しい。


2009.3.26 会連続集会44・金賢姫氏と語ったこと p3/6 へつづく。
次は、西岡 力氏によるお話。






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最終更新日  2009年04月13日 14時05分37秒
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