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カテゴリ:書評、感想
この時代の人物は「姓」「名」「字」(日本語では「あざな」と読む)を持っている。
たとえば諸葛亮、「諸葛」は姓、「亮」は名、「孔明」は字となる。また伏龍と称される記述もある。 一般的には、「字」は目下の人間が目上を人間を呼ぶ時に用い、「名」は目上の者が目下のものを呼ぶ時に使うとされる。 しかしながら、この一般論はすべてに当てはまるわけではない。 彼らはどのように呼び合っていたのか、使用される場面を思い出してみよう。 まずは例えで出した諸葛亮、彼は劇中ではほぼ、「孔明(kongming)」で呼ばれていた。「諸葛亮」で呼ばれた場合はなかったと記憶している(DVDが出た時に確認が必要)。 逆に周瑜は字が「公瑾」なのだが、劇中では一度も使われなかった。ほぼ「周瑜(たしか面と向かっては使用されなかった記憶)」「周都督(言い難そうだった、都督は役職名)」だった。 曹操は字が「孟徳」なのだが使用されなかった(うろ覚え)。噂、話題の場合は「曹操」、たしか呉の議論の場所では「曹公」、漢の献帝、及び臣下たちは役職で「丞相」と呼んでいた。 字で呼ばれていたのは孔明だけか?と思うが違う。 趙雲、字は「子龍」なのだが、彼は「子龍」で呼ばれたり、「趙雲」と呼ばれたりしていた。場面はDVDを見ないと分からない。 必ずしも歴史、場面に忠実に呼び名を使用しているとは限らない。娯楽であるのだから、分かり易い呼称を用いるのだろう。 これではたしかに、初めて見る人は混乱してしまうのも無理はない。 昔、このことを(論点は別のポイントにあるが)修士論文で取り上げた。これもまた興味深い、部分だ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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