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天安門事件を描いた小説。中国人では初めてではないだろうか。
国内では未だに天安門はタブーとされている。建国60周年の佳節に図解60年史が出ていたが、それにも天安門が載っているのは毛沢東の建国の演説だけだ。文革は批判しても問題ないが、天安門批判は罷り通らぬ、中国政府の統制であり、メディア事情が浮き彫りになっている。劉暁波のノーベル平和賞受賞も報道されない。 あの頃、真剣に民主化を叫び、中国の変革を望んだ人間は歴史の流れとでも言うべき大きな波にさらわれ、漂泊の民となってしまった。しかも現在は党員に資本家を巻き込み、中国政府はもはや共産主義ではなくなっている。これまた歴史の流れで中国政府もさらわれ、残っているのは共産の看板だけとなってしまった。そうした民主化運動家のアイロニーというべきものが、この作品の中には漂っている。 日本人がこの作品を読んだらどのような反応になるのだろう。学生運動に加担した団塊世代は、間違いなく、目を輝かせながら、「覚えているよ。日本でも同じ事があった。あの頃は輝いていた。」と昔の思い出話を語り、「今の学生には意気が無い。」という論に至るだろう。 作者の狙いはそこではない。作者はエピローグにおいて、小説を書くことは自分にとって喜びだが、この小説は「怒哀」がこもっている。と述べている。また、芥川賞を受賞した日の夜、家に帰り布団荷入ったとき、涙が溢れてきたという事も述懐している。 今まで、日記、ルポルタージュ的なものは存在していたように思う。しかし文学という芸術の場でこの問題を取扱い、その心理描写に成功をした例は今回が初めてではないのだろうか。しかし、日本文学の中ででしかこの問題を取り扱えなかったのは、皮肉というほかないだろう。 文学大辞典によると「小説」という語源の一つにこのようなものがある。昔、中国の裨官という人間が、巷の中にある話を集めた。というのは、王が民がどう思っているのか知りたいという意向があったからだ。その集めた話を小説といったらしい。小説というのは語源から、見えない世の感情を見つけ出し、それを顕わにする性質が存在しているということだ。 中国にはその伝統がある。林語堂は近代の社会諷刺小説の淵源を呉敬梓『儒林外史』と置いている。魯迅も中国の病んだ精神の治療を文学命題とした点で、『阿Q正伝』もその流れを汲むものと位置づける事ができよう。また清末から文革までを描いた陳忠実の『白鹿原』もその流れの中における。文革を描いたものは、現在多く存在する。 今回のこの作品はまた一歩進む兆しを示した小説と言うことができるのではないか。 時が滲む朝 (文春文庫) (文庫) / 楊逸 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011/06/02 10:33:16 PM
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