『胡同(フートン)のひまわり』
TSUTAYAに行くとかなり大量に置かれ、注目の大陸映画との事なので観ることにした。 物語は3部構成のような形。主に主人公、向陽(シャンヤン)とその父、庚年(クゥアンニェン)の二人を中心に描かれる。 まずは幼年時代の70年代。文革(文化大革命)が終わり父親が戻ってくる。少年・向陽は突然現れた父に戸惑いを感じる。向陽は腕白盛りでいたずらばかりしてまわっている。それを見兼ねた父が絵を教える。父はもともと画家だったが文革中の負傷が原因で筆が握れなくなってしまっていた。彼の絵の才能を見出し、彼に徹底して絵を教える。しかし向陽は反発。ろくに友達とも遊べず絵を書かされ、父を恨む。思い詰めた向陽は利き手を故意に傷つけて使えないようにしようとする。 学生時代の80年代後半。父の束縛から逃れるため、学校をサボって物売りをし、広州で友人と商売をして一旗挙げる計画を立てる。そのようなときに于紅(ユーホン)に出会い恋に落ちる。 しかしお金が見つかり父に叱られる。貯めたお金を持って密かに広州に行こうとするが、直前で見つかり、連れ戻される。さらに恋人の于紅が妊娠していることを密かに手紙で告げようとするのだが、向陽に届く前に母に手紙を開封され、親が向陽に黙って子供を堕させる。一方的に別れを告げられ、後で知った向陽は怒り、縁を切ろうとするが父は承知しない。父親に監視され10代をすごす。 成人してからの90年代後半。母は胡同の旧い家よりアパート暮らしを望み、偽装離婚をして別居する。取り壊されてゆく胡同に生活する父。向陽は画家となって展覧会に発表するまでに成長している。小韓(シャオハン)と結婚して、倉庫を改造して自宅にし、両親とは別々に暮らしている。お互い、時に一緒に食事をする取り決めをしているがいつもぶつかり合いけんかをしてしまう。そんな時、小韓が妊娠しているのが分かる。黙って堕させようとしていた事に反発だとして父が怒り喧嘩になる。お互い頭を冷やした後、向陽はいい父親になる自身が無いとしてやはり堕させると告げる。その後絵画展があり、向陽の出品作を父が見る。父は向陽と固い握手を交わし、私の目に狂いは無かったと告げる。その後、父が突然皆を集め酒宴を開く。上機嫌に話す父。しかしその夜に失踪する。テープが残されており、妻への愛、息子へのメッセージが込められ、自身のためにこれから生きたいと残されている。最後に向陽は孫を授かり、親父も世界のどこかで生きているはずと思いをはせ物語が終わる。 中国の父親は忍耐強い。親父の権力が強いのだが、たとえ反抗されようが、恨まれようが、これと信じたように子供を育てるやり方は中国的なように思える。 日本のドラマだったら子供が「親子の縁を切る」と宣言すれば父が怒り「出て行け!好きなようにしろ!」というのがセオリーなのだが「お前を離さない」というのはすごい。よく我慢できる。どういう思考に基づいているのだろう。 中国と日本では切れる場所が異なる気がする。日本なら他人の娘を孕ませたら張り倒して勘当するのが普通だろう。 とにかくこの父、庚年は忍耐強い。画家だったがその才を時代によって踏みにじられ、一生を台無しにする。頑固であるため妻から非難されたり、息子から理解されなかったりと、報われない。しかしめげない。常に前を向いている。 息子の方は父親という存在に最後の握手まで衝突を続ける。ここでなんとなく同じ道を歩んでいる自分の兄貴と親父を連想する。 映画の象徴表現というものを非常に上手く使っている。 青年時代のラストシーン。凍った湖の上で子が逃げ父が追う。二人とも氷に足を滑らせ転びながらもつれ合う。最後に父が足を滑らせ誤って氷の解けた部分に落ちてしまう。抜け出せない父、じっと見守る息子、その目から涙が止め処も無く流れている。父は助けてとは言わず、ポツリと「逃げないのか。」と言う。息子はしばらくの間の後、無言で助け出す。 とてもこの二人の感情を表現していると感じる。台詞など無いのだが。 最後に翻訳を見ていてたまに自分だったらこう訳したいな、と思う箇所が今回はあった。まあ、意味的に通じているようだし、字幕翻訳は限られているから仕方ない部分があるのだろう。 背景として文革、改革開放、そして発展により変貌し行く北京を上手く入れ込んでいる。景色の変化。国際都市としての体面を保つため歴史のある北京の町並みが壊されてゆくのを随所に挿入する。それは主題ではないが上手い入れ方をしている。 そんなことを感じた。