息子は10月半ばで4歳になる。ペルシャ語はほとんど
他の子供達と同じようにつかっているが、
日本語のほうはどうもあまり芳しくない、、、
私がいっていることはほとんど解するが、日本語で返事をしない。。。
でもあまり強くいうと、日本語で話しかけることを
拒否されそうで、、、、、長い目でみることにしようと思う。。。。
言葉というと単に意思疎通の道具と思われるが実はそうではない。
二ヶ国語を話す子供達が、ときに学力が伸び悩むことがあるそうだ。
その原因は両方の言葉が、中途半端だからだそうだ。
二ヶ国語をはなす人たちも、思考するときに使う言葉は一つなのだそうだが、
思考するときの言葉が未熟だと、高い次元の思考ができないそうである。
だから思考するときにつかう言語を、しっかりと学ばないといけないそうである。
考えてみると私は27歳の誕生日には、まだペルシャ語が話せなかった。
現在38歳である。読み書きに支障があるものの、日常会話で苦労することはない。
息子が日本の何かに興味をもつようになったら、
自分できっと言葉を覚えるであろうと期待している。
さてここまでが実は私が書きたかったことの前置きである。
私は言葉というものが思考するための道具である、ということを書いたが
英語を勉強して、そんなことを考えたことは一度もなかった。
私は日本人だし、英語を解するものの日本語で思考することがあたりまえで
別段それに気をとめることもなかったというのが本当のところだ。
しかし店番をして面白いことがわかった。
私は、最初お金の計算することに、大変苦労していた。
それはどうしてかというと、ペルシャ語の値段を
日本語の値段になおして計算して、おつりという答えをまた
日本語からペルシャ語にしていたから時間がかかったのだった。
しかし毎日計算していくうちに一週間もしないうちに、
ペルシャ語でダイレクトに計算できるようになっていた。
それからはもう普通のイラン人よりも早く計算できるようになった。
そして言葉というものが思考する手段であることを、実感したのだった。
それでおもったのだが、英語の授業でも、
店員と客の設定で英語で値段をきいたり買い物をさせたり、
おつりを計算させるというのはどうか?と。。。。
外国の言語を実際に使うということが脳みそで体感できるはずである。
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