<主語も目的語も欠如した行為> という記事に対してこんな質問を受けました。
Jさん:相対的な関係が消滅して因果(因縁)関係がなくなれば
本来、あるべき秩序が回復するということですか?
つまり、顕在意識による恣意的行動は本来の秩序とは相容れない因縁を発生させると?
私:本来あるべき秩序と仰られている内容についてはなんとなく伝わりますが、
できましたらもう少しはっきりさせてくださいますと、的はずれな答えをしないと思います。
第1文ですが、因果関係というものは、相対関係(相手とか対象)が存在しなければ、発生しないものだとはいえます。
そして顕在意識、恣意的行動、誰が何をするという意識の上に因果関係による輪廻、生死・・・・
そのほかこの世界の中にあると思われている全てのもの(幻想)が存在していると言えます。
Jさん:まず、一つの前提として、この世(自然界)には一定の秩序が存在するとします。宇宙レベルでも細胞レベルでも。
で、その秩序に従って運行していけば、各個体が幸せかどうかは、ともかくとして、一定の調和のとれた世界が実現するとします。
各個人が、相対的な関係を消滅させた後にも、一定の秩序に基づいた行動がとれるとすれば、それは、個々人が秩序を内包しているからにほかなりません。
そうでなければ「一挙手一投足といえどもこの大いなる力が及ばぬことはない」ではなく、混沌とした状態になるでしょうから。
つまり、その個々人に内包された秩序が「本来の秩序」ということで、我欲、妄執、憤りなどによって生まれた行動(因縁)が消滅すれば、それらによって覆われていた本来の秩序を回復させることができるということか? という意味です。
私: 相対的な関係を消滅させた後にこの答えは自ずから見えてきます。
Jさんが仰る(あるいは見ていらっしゃる)私、あなた、彼・彼女・・・、
これらは相対的な関係を消滅させようが、させまいが、何も変化はありません。
それが本来の秩序というものです。絶対なんです。何物にも揺るがされず、影響を受けずに存在します。
従って、誰が、彼が(っと思われている存在が)何をしても、しなくても、意図的であろうと、意図せずとも、本来の秩序とJさんが仰るものは影響を受けません。
そして、本来の秩序 とJさんがお書きになられているものは、
”今までも、今でも、そしてこれからも 存在していたし、存在しているし、永久に存在し続ける”でしょう。
名は、宇宙 であっても、無限世界であっても、神であっても、Jさんが表現なさった 本来の秩序 であっても、それに帰依できればいいのです。
名は、言葉は、全くなんの意味もないんです。重要なのはその本質であり、名と言われるものは、私(真我という意味の)が存在するのみです。
”宇宙も、世界も、私も、この世に存在すると個我(自我)が認識しているもの全てが幻想”とマハルシ師が表現なさったことは、”本来の秩序(真我)以外には存在するものはない”ということの裏返しなんです。
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”本来の秩序 以外には存在しない” ということが理解できれば、
宇宙とは、世界とは? 我とは? 知識とは?分別とは?名とは?言葉とは??
その答えは、相対的な世界の中では決して見つかるはずはなかった っと、
自我・個我を含めた、相対的な世界・宇宙というものの存在そのもの、
それらの土台だと思い込んでいたものが払いのけられ、
本来の土台、源が照らしだされます。
”本来の土台”、その存在に気がついていなかろうが、
それを取り違えていようが、
存在そのものを否定しようが・・・
”本来の土台は、源は、常に存在しています。”
あるがままに存在し、存在し続けるでしょう。
ただ 心が、自我が、それを深く、深く、覆い隠しているだけです。
失楽園とはアダムとイブが追放されたんじゃありません。
彼らは 意志(自我・心) というものに付き従い”楽園を後にした”のです。
慈悲、慈愛を深く普く降り注ぐ大いなる力は、
楽園の門戸を広げていらっしゃり、
心を破壊しさえすれば、
楽園はいつでも広がっています。
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