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カテゴリ:私見
自ら・・・おのずから(真我)と みずから(自我・個我) 禅問:自分 とは ”自”を”何から”分かつのか?それは何のために? 真我探求 は 自分 を問い詰めていかないと進みません。 けれど、この問いかけたに浮かんできた言葉・答えは全て、その人にとって正解 だとも言えます。 なぜなら、自分 というものを心・感情で捉えていくと、数限りない”自分”が見つかってくるからです。 掴んでも、掴んでも、新たな自分の分身が浮かび上がってきます。 しかしここでは、このような中途半端な書き方をすると、伝わりにくいかと思いますので、以下に私的な考えを示します。 自分 という言葉 から 分(分ける・分かつ)を取り除くと”自”が残ります。 この言葉は訓読みで二通りの読み方があります。 ”おのずから と みずから” です。 私は、 おのずから と 読むと 真我 みずから と 読むと 個我・自我 を示しているように感じました。 おのずから というのは”自然と~・自然に~”という意味です。 自 というのは本来 ”自然にしていても存在する” もので これこそ 真我(あるがままに存在するもの)なのだと思いました。 しかし、いつしかそれ(自)を”意図的に顕わしめよう”という意識(自我・個我)が芽生えるようになります。 そこから みずから(意図的に、自主的に) という意味が生まれてきたのだと思っています。 そしてその作業には 自然との分岐が伴った のだと思うのです。 ”自我・個我・心で認識・意識することこそが (自然や)世界やあなた 彼 彼女などから我を離反させ 排他的に物事を分別し、己を浮き上がらせ 引き立て、区別は即ち 我を限り・あなたを限り・彼 彼女を限り・世界中のものを限って エゴ(自我・個我) を確立する作業に他ならない” と書きましたが、これが ”自分” という言葉の由来のように私は思っています。 おのずから(自然に、あるがままに)というものから、 心によって離反し、我(自我)を確立させるため、 自然や万物、森羅万象を対象物として認識する心の働きが ”自分”になるのだと。 自分とは、 ”みずから(心の欲するままに、意図的に)という意思の芽生えによる、おのずから(自然状態・あるがままの状態)からの決別” ではないか?と私は思っています。 だから、己を自然・世界・あらゆるものから離反させなければ それらを比較対象物として捉えなければ 相対性の関係を消滅させれば ”おのずから”の状態(あるがままの状態)に”還る”ことが可能なのだと思います。 ”鏡 かがみ ”から我(個我・自我)を取り除いてみよ 鏡に映った姿は同じだが、鏡が映しているのは 神 だぞ かがみ とは かむ(神)が(の)み(身・姿)でもあるのだぞ しかし かがみ で 我 をみるのもよし かがみ で 我(神)をみるのもよし・・・ 人が心によって、自我・個我を認識する(自然からの離反する)行為もまた ”大いなる力による思し召しである”とも私は思っています。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013年05月02日 13時16分55秒
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