|
全て
| 家族
| お料理
| 建物
| 天候
| 行事
| 旅行記
| イランの生活用品
| イランでの生活
| 趣味
| お店
| 病気
| 追憶
| 言葉
| 私見
| 事件、事故
| 幼稚園・就学
| 社会問題
| 夢
| 翻訳
| 楽天プロフィール
| おとぎ話 ”春”
| 短歌・俳句如きもの
| English
| ひとりごつ
| 2014来日記
| 奇譚
| 詩
| Picturesque views from my eyes
| 波風の逢瀬
| Short stories
| ジョーク
| 素描
| レビュー
| こたふこだま
| 2017年来日記
| 私のお気に入り
| 2019~2020ふゆやすみ
| バイト
| 新型コロナウィルス
| フランス語
| 螺旋 こたふこだま
| Instagram
カテゴリ:私見
”月が欠けゆき また満ちるように・・・” という記事に対して oak treeさんから・・・ 無常の常ですね というcommentをいただきました。 Maryam F D:無常の常?!(知らないので調べます((;゚Д゚)押忍) oak treeさん:造語ですよ ^_^; Maryam F D:u~~.やられた!私は 無心の常 でありたいかな。 心は使わないで、反射神経というか本能による行動を多くしていきたい。 よくわからないけど、自然とそうしてたんだよね・・・っていうような。 だっていくら無我の境地・・・といったって、 防衛本能なくす努力なんてする必要ないし、 本能的な欲求は自然なものだもの。 正当防衛的な反射神経的・本能的な行為で相手を傷つけたことに対してまで、 苦しむ必要はないように思う。 心って恐ろしいよ、人を殺せてしまう人が世の中に存在するのが当たり前なら、 自分自身を自分の心が責めて、精神を病ませる場合もたくさんある。 実は私が無心ということの大切さを理解する前の晩に、 恐ろしい言葉を私は姑に投げつけちゃっていた。 無心ということを理解する3・4時間前の出来事だった。 無心を理解したら私はおそらくその言葉を、 一生彼女に言わなかったと思うのだけれどね。 サダメってすごいと思った・・・ サダメはどうしてもそれ(私が恐ろしい言葉を姑に投げつけること)を望んだのだ っということを理解したから。 彼女(姑)には、私が死んでも葬式にも墓にも墓参りにも来るな!と泣き叫ばれた。 (でもその時私すごく冷静だった。あなたはこうやってすぐに泣き叫んで相手に絶交だとか、関係の断絶をぶつけられたんだよね。 私が今回衝動的に叫んだ言葉はとっさの言葉じゃない。 7・8年苦しみに苦しんで、心が血しぶきを上げながらもこらえていた言葉なのよ・・・って思っていた。 この言葉を私が発したらあなたがどんなに傷つくかわかっていたから、 それこそ関係の断絶を意味することになりかねないと、 嫌というほどわかっていたから言葉にはしなかったのよって。) それでも私は、もしその後に”無心”を理解しなかったならば、 姑を激昂させた自分の言動を責めて、責めて、姑が亡くなっても、自分が死ぬまで 姑に言葉を投げつけた自分を責め続けたかもしれない。 でも私は、相手を傷つけたことも、自分が苦しんだことも、 相手を傷付けて自分を苦しめることも やめよう と思う。 それは 起こるべくして起こった、ただそれだけ。 oak treeさん:世が変化し続けるのが無常で、その変化が「常に」起こるという意味でした。 本能はなくしたら死んでしまうので、無くす必要はないですね。 無心というのは本能をも含めて観る感覚、本能をも超えて離れて観る感覚なんでしょうかね。 Maryam F D:無常の常 ですか。同感です。それをただ映している、 もっと正確に表現すると現象として顕現しているもの全ての中に存在するのが真我。 そして真我が見られる、または映される(対象となる)ことはなく ただそこにそうして存在しているだけ。 oak tree:真我というのを担保にするのもよくないのだけどね。 真我が絶対で でないのものはしょせん相対・・・ だと世のおおかたを軽く観てしまう傾向にあるいは、 ひょっとするとニヒリズムにもなりかねないので そのへんは注意しないとね。 Maryam F D:そういうふうに受け取られかねない部分はありますね。 中途半端に真我を理解すると危険思想に受け取られることは否めません。 ただ真我はニヒルとは異なりますよ。真我なくして何も映らないとしたら、 全ては真我が土台となってつながっているとも言えます。 相対するものではなくて、つながっている感じ? 私が月の中にも我を見るのは、元にあるものは同じだからです。 源流をたどれば一(いつ)となります。 それは、、、月だけではなく全てのものに言えます。 私はOakさんとも、たった一度すれ違う人とも元を辿れば同じものに行き当たります。 二十歳の時に私は、自分のこの世での存在を”幻”と書きました。 ”彼女は幻” あれはいつの日だったろうか 彼女が愛を失った日 彼女が自分の心と引き換えに 再び生命を得た日 彼女は誰をも愛し 誰をも愛さない 自分すらも愛さない 彼女の瞳に映る現実は映画のフィルムにすぎない 無感動の観客、傍観者 彼女には真の喜びも悲しみもない 肉体は存在する だが彼女は幻 誰もそれに気がつかない 彼女の優しさは愛ではなく 自己を否定して生きるための手段 あなたの瞳に映る彼女の姿は 虚像にすぎない 彼女は幻 現実に使わされた夢魔の使い (1990年記) 今は、彼女(私)だけでなく、彼も、彼女も、あなたも全てが幻だとおもっています。 誰をも愛し、誰をも愛さないというのも中途半端な理解でした。 確かに愛するも愛さないもないんです。 私もあなたも、彼も彼女も、、、、元はひとつだからです。 私はいつもこうやって言葉を綴っているときに、 Oakさん、あるいは別の人とのやり取りであっても、相手の方に書いているのか? 自分自身に書いているのか?あるいはOakさんの言葉が、自分のものであるような? そういう境界線が非常に曖昧な感覚を長いことずっと持っていたんです。 でもそれは不思議なことでも、頭がおかしいのでも、なんでもない、当たり前のことだったんだ! ということがようやく理解できました。 でも、これを私がしつこく続けていくと、相手の方は私に警戒します。 それはその方の自我・個我という相手との境界線を超えてしまうからなんです。 そうしては、私の言葉は、相手の方の神経を逆なでしてしまうようなのです。 私は、あなたも私も境界線は曖昧という距離で言葉を綴ります。 相手の方にしてみれば、そこまで私の奥に土足で踏み込む言葉を投げかけるあなた! 他人のあなたに、一体私の何がわかるっていうの?やめてくれる?! っといったところなんでしょう。 私は今後はこういう余分な、大変迷惑なことをするのは極力控えようとは思いますが そんな私のちっぽけな願望すらサダメが聞き入れるなどとは もう長年の(サダメとの)戦いから 思ってもいない のです。 言葉を発したくない!って思っていても、必要とあらば、言葉を発せざるを得ないのです。 それが サダメ というものです。 だからこそ私は言葉を発するとき(ある行動を起こすことでもありますが・・・)には、 ”無心” 私がこれをしている という意識を持たない 感情的に発しようが、無感情に発しようが、 もう言葉を発することはサダメられていた と思うのです。 そしてこれは逆も言えるのです。 私が相手から与えられた言葉というのは 姑が泣き叫んで言葉を発しようが、感情抜きに発しようが 姑が私に 葬式にも出るな、墓にもくるな、墓参りも足を運ぶな! という言葉を与えられることは サダメ であった ということです。 だから私は彼女にどんな 悪感情 も持っていません。 それこそ以前よりもずっと穏やかに日々が過ぎていってます。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013年05月11日 16時53分30秒
[私見] カテゴリの最新記事
|
|