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カテゴリ:私見
"承知しております" "源流をたどれば一(いつ)となる"という記事の最後に私は、 以下のように記しました。 ********************* 私は言葉を発するとき(ある行動を起こすことでもありますが・・・)には、 "無心" 私がこれをしている という意識を持たない 感情的に発しようが、無感情に発しようが、 もう言葉を発することはサダメられていた と思うのです。 そしてこれは逆も言えるのです。 私が相手から与えられた言葉というのは 姑が泣き叫んで言葉を発しようが、感情抜きに発しようが 姑が私に 葬式にも出るな、墓にもくるな、墓参りも足を運ぶな! という言葉を与えられることは サダメ であった ということです。 だから私は彼女にどんな 悪感情 も持っていません。 それこそ以前よりもずっと穏やかに日々が過ぎていってます。 ******************** 私が 姑に対してどんな悪感情も持っていないし、 穏やかに日々が過ぎていっている っと言い切れる理由は、 私が 姑の葬式に出るも出ないも 墓に行くも行かぬも 墓参りに足を運ぶも運ばぬも その時 その場 になってみなければ "私"でさえ全くわからないからです。 姑に決められるものでもなく 私に決められるものでもない ってことを 私は "よく承知している" からなのです。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013年05月14日 15時30分57秒
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