”イラン大統領選挙に想ったこと ”という記事について
maryamさんのイスラムのお話って日本人には理解しにくいと思います。
中東は宗教、民族、言語、文化が長い歴史の中で混ざり合って
全体的にはイスラムに見えるけどそうじゃなくて、
イスラムではあるけれどそれぞれ違った特徴を持っているからです。
っというcommentをいただきました。
(commentしてくださった方に心から感謝を<(_ _)> )
それについて私は以下のように答えました。
私が記したのは、イランという世界で唯一のイスラム共和国についてです。
アラブのこと、インドネシアやそのほかのことにまでは、
とても言及できませんが、(話がとてつもなく大きくなっていきますから・・・)
”イスラムの宗教として顔”と上手に仲良くやっているのは
マレーシアぐらいじゃないでしょうか?
最近タイにもイスラムが多くなっていますけれど、
今後どうなるのかしらね。
イスラム は 宗教 という名で規定するには、
大きな落とし穴があるだろうなという”思想”を含んだもので、
イスラム教というよりは イスラム と記した方が誤解がないような気が私はします。
そのことを述べたかったのです。
イランだけでなく、イスラム社会という中、それがたとえ田舎のちっちゃな町でも
イスラムの社会に入ったら、そのイスラムの慣習に従わなければいけないし
それを破ることは命の危険があることも考えられます。
宗教は自由なのよ! ではとても済まされないものです。
こうなるとイスラムは宗教から少し離れてきます。
イランの中のイスラムも 宗教 から離れてそれは もともとそれぞれの土地や国にあった文化、慣習・習慣・風習というものと融合して存在し、
生活に関わる全てでもあり、法律でもあり、
その地域の”掟”のような顔になってきていると思うのです。
心の部分だけに関することならば、それは確かに自由ですが、
イスラム社会の公の場といわれるところでは
やはり イスラムの決まり、文化、風習 を守らなければいけなくて
それは 法律や条例等 と同じものだと思うんです。
イスラムを誰に教わるか?誰をみて知るか、習うか?
ってこともかなり大きいと思います。
イランとイラクとアラブ諸国と、トルコ、マレーシア、インドネシア、それからアフリカ諸国ではそれぞれ違うだろうし、夫にならう、義両親にならう、学校へ行って習う、仕事場でならう
、教師に習う、親戚にならう、家族にならう・・・
これまたいろいろな違いが考えられるのではないか?と。
シャーリア法はイスラム教徒のための決まりなんですが、なんと言いましょうか・・・
そのシャーリア法にどれぐらいの重きが置かれているか?
その点において、その国とか土地とか場所・・・そういってはなんですが、
公の場ではなく、私的な場であるならば、ある家族の団欒という場と、別の家族の団欒という場での振る舞いは決して同じではなかったりして、
公の場でも、私的な場でも、いずれにせよ、その場その場の振る舞い方が、
”その場にいるみんな(全体)の、イスラムに対する重きの程度 によって決まる”
ようなところがあるのではないかしら?
こういうことは、イランだけでしょうけれど、
イランにはそういう裏と表の顔があって、
イラン以外の国にはなかなか理解されない部分が存在することは確かです。
イランに来てみないことには、その素顔はわからない・・・というところがあります。
それが ヴェールを被っている国 とイランが言われる所以ではありますが、
いつも苦虫つぶしているような顔しか見せないイラン、実にもったいないなぁと思います。
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