”努力”からの解放
覚悟 緊張と弛緩
という記事を2011年10月に書いていた。
武士 もののふ の心意気は、それはそのまま 粋 なのだけれど、
私がこれまで良しと潔しとしていた観でもあるのだけれど、、、
そこまで思いつめる姿を少し離れた位置から眺められるようになったからか・・・
悲しくなってきた。
もうすこし穏やかに、、、自分を弛緩させながら
悦の部分をゆっくりと味わいながら生きてもいいんじゃないかしら?
と。
中略
覚悟の上で行うことができるのなら、そのことを逆に有効利用できないものかと。
覚悟は緊張もともなうけれど、
覚悟しきったことで肝を据えられそこには 弛緩 が生まれないか?
こんなことをその時に記していた。
私は 生 というものに負のイメージばかりだったんです。
それは自分の身体が、自分の思うようにならなくて、
生きることが辛かったからのように思います。
生 というものにすばらしいものとか、希望とか、夢とか、楽しい、わくわくする、
今日は駄目でも明日があるじゃない! っていう気持ちどころか、
今日を過ごすことが長くて、辛い、
普通の生活を送る、学校に普通に通うのも”ヒーヒー”言っていたんです。
時間をやり過ごすのがすごく辛くて、一日が長かったのだと思います。
高校時代には 生きることとは、即ち恥を晒す事 だとサダメ様に突きつけられ、
武士の覚悟とは真逆の覚悟なのかもしれないけれど、
自分が生きていることは、即ち恥を晒していること と思って生きていた部分はありました。
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覚悟しきったことで肝を据えられそこには 弛緩 が生まれないか?
ということについて2年程時を経た今、
弛緩 は生まれる と語尾を断定形にして考えています。
覚悟しきったことで なりゆき に任せられるようになりました。
成り行き任せ というのは 自分のためでもなく、他人のためでもなく
いきあたりばったり という言葉がぴったりあてはまるような
非常にいい加減なものです。
いい加減がちょうどいい?!
小細工をしないと、一番近くて良い道を歩いているみたい! という感じのものです。
一番良いとか、一番近い という順番をつけるのも良い表現ではないんですけど、
どんな道を歩んでいても、手足を動くままに動かして、
心の方は温泉に浸からせ、ボケ~っとさせていれば、
どんなに時間がかかろうが、そこでどんなことになっても ”煩うことなくやり過ごせる”
と表現したほうが正しいでしょうか・・・。
こうなると一応明日の予定というものはありますが、あってないようなもので
時間の感覚、曜日の感覚なんかも曖昧になり、
私の手足、身体は 私のものであって私のものじゃない みたいに過ごしています。
空手の稽古日 でも私はその時になってみるまで、
私は本日稽古にいくのかしら?
自身のことなのに私は、知ることが出来ません。
一事が万事、このように日々を過ごすようになりました。
他人事のようにいい加減!! としか表現できないのですが・・・
いい加減 はまさに 良い加減 なのかもしれません。
覚悟しきったことで肝を据えられそこには 弛緩 が生まれないか?
自分がしたい、やりたい、こうありたい、自分のためにこうすべき、ああすべき
こうせぬべき、ああせぬべき、人のためにこうすべき、ああすべき
こうせぬべき、ああせぬべき・・・・
しあわせ とは 生きがいとは? 生きる目的とは? 有意義に時を過ごすとは?
より良く生きるとは?
そういう
意識的な、自主的な、努力のようなものを手放して、
自分以外のものにいっさい委ねる”覚悟”をすることで
肝が据わって 弛緩 が生まれてきたんです。
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