切なさへの希求
心、気持ち、心情というものはそれこそ星の数ほどあり、
宇宙の広さほど大きく、複雑で正体不明なものではないかと私は思う。
多くの人はあまりそういう自覚はないのかもしれないけれど、
皆それぞれ自分の裡に大宇宙を抱えているのだと私は思う。
心と身体がバラバラで不一致なのは精神病であるとか
精神を患っているからだと言われようが、、、、
私にはそんな 心と言う怪物 と自分の身体が
ぴったり一致するなどということは
考えられず、有り得ないような気がする。
そして私は現実世界では表せない、
報われないさまざまな思いを慰めるように、
あるいは溜まりに溜まった心を吐き出すように
文章を書いている。
もちろん書くことが 好き 最も簡単で
わかり易い言葉で書くと、この一言なのかもしれない。
ただ心と身体の関係と同じように
身体は 心のごく一部 を形として外に表現できる
道具というか手段の一つ なのだと思う。
そのことは舞踏だとか、バレエ、フィギュアスケート、
新体操、シンクロナイトスイミングの演技だけではない。
私達は日々の生活や行為や行動、ちょっとしたしぐさの中に
心(の一部)を表しているのではないだろうか?
またこれは、思いを綴る、文章を書く、言葉にして発するということにも
言えるのではないだろうか。
その人が心に相応しい一言、一言を選らんで形成される、
その人独自の身体のようにそれぞれ異なる
文体 あるいは 言い方 というものの中に
心、精神の一部分を形として外に表現しているのだと思う。
ここでも同じことが言えるはずだ。
宇宙のような大きさの心を相手に数限りある言葉はあまりに小さい、
従って言葉を限りなく心に近づけることは
人間に可能であると思うが、
心と言葉がぴったりと添うということは
私にとっては夢のような気がする。
その夢に向かって私はできるかぎり
努力をしたいという気持ちは常に持っているが・・・・
私がこんなことを思ったのは、ある方が以下の言葉を
私に与えてくれたからだ。
巧い詩というのは、
自己から離陸(飛翔)している詩だと思います。
一義的な思いに相応しい形(言葉)を選ぶとき
最初の思いは薄くなります。
薄くなりながらも、透けて見える、
透けて見えざるを得ないのが
切なさだと思っています。
一旦自己を捨象しないと、芸術とはいえないと私は思いますけどね。
それに対して私はこのようにお返事した。
私は芸術と言われるような精神活動が、無かったら
とっくの昔にこの世に居なかったと思います。
(私は芸術作品や、文学作品と言われるものに触れることや、
自分自身が書くことで、心を吐き出すことで今までどれほど
救われてきただろうか?)
私が創作活動を好むのは正直に心を表現することができるからだ。
どんなに表現しようと思う心
(欲情という言葉に置き換えることができるか?衝動とか?)が汚く、
醜悪で、我侭で、目を背けたくなるようなものであっても
精神とその活動によってそれを高めて形にして外に出すことができるからだ。
一旦自己を捨象しないと、芸術とはいえないと私は思いますけどね。
自分というものは捨てたようで捨てきれないものです。
私はずっとずっと、ずっとその事にもがいている。
それでも私という海の中に今でもどっぷり浸かっている。。。
と。
最近また、上記した言葉について考えてみた。
おそらく 自己を捨象 というのは
(捨象:抽象する際に、本質的でない種種の性質を捨て去ること)
私が自分の本質という言葉を
使って述べていることを指しているのだと思った。
そう考えると私が自分の本質を感じ、
それに逆らえないともがき、苦しんでいることは
芸術へ近づく一歩なのかもしれないと励まされた。
一義的な思いに相応しい形(言葉)を選ぶとき
最初の思いは薄くなります。
薄くなりながらも、透けて見える、
透けて見えざるを得ないのが
切なさだと思っています。
ここは本当に美しい表現であるし、
この文章が指し示している内容も美しい。
薄くなりながらも、透けて見える、
透けて見えざるを得ないのが
切なさ
私はこういうものに心が触れたときに
心揺さぶられ、どうしょうもなく心惹かれてやまない。
そしてそれは
言葉 と 心 の微妙な ずれ が切なさを生み、
ずれ ていて、言葉に表れていないものが
微かに透けて感じられて見えるものが
切なさ であるのではないかと思った。
私が幼いときから
心と身体が別々であったらいい・・・・
と望んでいたのは、
私が肉体に縛られていると思うような身体を持って生まれ、
常に心身の不一致を感じてきたのは、
私が 切なさ という私の心を揺さぶってやまないものを
希求するためなのではないか?
とさえ思った。
(2011年4月記)
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