↑metalrainbowさんのこちらの記事を拝見して思ったことです。
私が御記事を楽天プロフィールの方でshareして感想を記しましたら、
コメントをいただきまして、そしてそれにお返事しているうちに、
私が心の裡に抱いていることがいろいろ浮上してきました。
そのときのことを記録しときたいな、、、っと思ったので記事にいたします。
こういう想いにとらわれると、救いがない ねえ・・・っと。
私も囚われたからわかるんですけれど。
そして、救いがないっということが 全て を覆い尽くしてしまう。
時というものを、
一方向的であっても、輪のように繰り返しであっても”流れるもの”
っと捉えてしまうと、死 さえも 救い とはならないんですよね。
ニーチェの永劫回帰 ということについて、
実は、お恥ずかしいことに私は、
metalrainbowさんのこの御記事がきっかけで、
ウィキペディアで検索して、ようやくどういうことなのか知ったのですが。
たしかに一瞬というものは刻まれて(録画)され、それは再現可能のものであるとは思いますが、
その録画のされ方は、個々人の録画機器によって異なる(心象が異なる)ものではないか?
っと私は思っています。
そして同じ映像を繰り返すため、再現するには、個々人の心という”媒体” が必要なんです。
この辺のこと詳しく説明しようとすると、奇人変人狂人話になるんでこの辺でやめます<(_ _)>
現象を一瞬、一瞬として捉える というのは確かに私も肯定できます。
けれど、 永劫回帰 という思想を私は完全には肯定できません。
それは、煮え切らないっと言われそうですが、
部分的には肯定できます、ということでもあるのですが・・・。
な~~~~んてことをかいていたら、Okyamachan さんから
↑記事を示唆されました。
記事をみてみました。
動物にも感情があるのですよね。
昆虫はどうなのかな?と蟻をみるときに私はおもいます。
感情があるということは、、、勿論良い部分もあるし、悪い部分もありますね。
快・不快はあるでしょうけれど、これは身体に関係することでもあるのでしょう。
喜怒哀楽というのは実に厄介なものだとおもいます。
喜怒哀楽がなくなったら人非人?!という誤解をうけそうな表現でごめんなさいね。
インドは、、、人々の社会制度や生活体制の中に、
カースト制度でしばられているのを好む部分もあるようですから、
象にこういう仕打ちをするのは当然と思ってしまうのかしらねえ・・・などと私は想いました。
人は嬉しいときにも悲しいときにも泣きますが、
どうしようもない救いのない、泣くしかないというときにも泣くものですね。
時間というものを線や螺旋ではなく、点で捉える というのは同感です。
私もそこへ行き着きましたから。
しかし、そこへ行き着いたあとニーチェは 神は死んだ とその景色について語っているのです。
この彼の言葉で、私が時を瞬間として捉えた場所でみた景色と、
彼がみた景色とは、違ったんだろうな、と想ったのです。
私は 神(神という名前でなくても構いません、大いなる力)は100%である、
全てのものは神に通じている と感じましたから。
これは、あらゆる矛盾を飲み込むという意味では、
彼が行き着いたのと同じ場所に立っているのですが、
眺めている心象景色は180度異なります。
唯・・・ どちらも奇人変人狂人 なのだろうとはおもいますがね・・・
超人 という言葉はどうもいまひとつかな、、、
ある一線を超えた(先をみてきてしまった人)とは言えるのかもしれませんが。
インドの象さんの記事:インド人を批判する側で言葉を書きましたが、
どうも心にひっかかるので以下の視点も記しておきます。
インドの伝統や生活において象をこのように扱うのは、
彼らの歴史の中では普通だったのかもな・・・とも思いました。
日本の鯨漁について、欧米が日本人には血も涙もないのか!
っといった物の見方だけで、
記事やニュースにして世界的な批判を日本の文化に当ててきましたが、
牛や羊などの肉を食べる文化や伝統や風土のなかった日本では、
人が生きていくためには必要なことだったのだろう、
と日本人の私には容易に理解できます。
そんな欧米人は羊や牛や豚を屠て喰らう文化のうえに、
スペインではただただ人を喜ばせるために、
牛と戦って殺す闘牛士などのショーが行われていますが、
それについてはどんな批判がなされているのだろうか?と思うわけです。
インド人はまだ象を鎖につないでいるわけで、
ジリジリと串刺しにして殺しているわけではありませんよね?
そういうわけでニュースや記事というものは、書き手の視点だけがクローズアップされ、
その事象の背景は透けて見えない形で描かれます。
イラン人も、活きた魚を、そのまま煮え立つ湯につっこむなどの調理方法をみたら、
非常に不快、人非人の行為とみるのが一般的で、その感覚を払拭するのは、
彼らには、難しいことではありますが。
(metalrainbowさんよりここでコメントをいただきました)
象話に発展させて動物虐待・殺生について仰ってますが、
以前私も Earthlings という殺生に関する映画記事を公開しました。
食か娯楽かでも解釈は異なりますね。
(以上metalrainbowさんより)
殺生 に関する御記事、以前にも拝読してましたが、あらためて・・・。
屠り、食肉にするということには 銀の匙 というコミックにもとりあげられていたかな。
私は大学時代にとにかく 生きる ということに
夢・希望・幸せ を感じることが 疑問 でした。
それは、毎日食事するのが苦痛だったことが、
生きる ことに積極的になれなかった理由のひとつだったと思うのです。
食事して排泄することが私は 苦痛 だったんです。
それもこれも 身体 があるからだ・・・っと思っていました。
日本ではあまり肉類を摂らず、魚は食べてましたが、
食事も 生きるために必要な行為 ということでしか捉えられず、
食べることが 楽しい、嬉しい、幸せ と感じることは、
食べ盛りの成長期のときでもなかったんです。
そんな私は結婚してイランにきて、ほぼ毎日、羊や鶏、牛の肉を調理し、食すようになりました。
これは単なる食生活の変化ではなかったとおもいます。
私は自分のためには料理したり、食事を尊重することはなかったのですが、
結婚して妻になり、母になってからは、食で人(夫や息子)を養うという視点が
私の中で芽生えてきて、ようやく 食事 を尊重できるようになったんです。
人は自分の命をつなぐ為に、殺生をしているっということ、
それをどのように個々人が受け止めるか、
その人の心の中でどのような象(しょう)として映されているか
なんでしょうね。
(しかも、私のように結婚する前と、した後では、
同じ、私という人間でも、その心象がまったく異なるっという場合もあるということです。)
そんなこと(自分の生命の持続は他者の犠牲を前提としている)を突き詰めて考えてしまったら、
呼吸をすることでさえもはばかられてしまうわけですけれど・・・。
喜怒哀楽などの こころ があって人たる、
こころ が動かされないのは、冷血漢の証などと一般的には思われてしまいますが、
私は、それでもできるだけ こころ は動かさないほうが良い
っと考えているのはそんなことがあるからなんです。
喜怒哀楽 を感じても私は、
その 自分と思われがちな 心が 喜怒哀楽 などのさまざまな状態に揺れ動く様 をできるだけ
眺めている己 を意識しようと思ってます。
(でもこれは、なんというか、 物事を割り切って対応する ということとは、また異なるのではありますが。)
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