”人と境遇”
「境遇が人間を作るのではない。人間が境遇を作るのだ。」ベンジャミン・ディズレーリ
なんて言葉を目にした。
私にはもう、どうでもいい問題かな・・・。
ただ私が、日本語で考えるっていうのは、
現在・過去・未来を通して自分には大きいから、
やっぱり境遇は今でも影響しているかな?という感じはする。
今はもう”自分が置かれている境遇”というものを含め、
物事を考えることをしないようにしているから、
この問題はどうでも良くなって来ているのだが。
”自分の置かれている境遇・状況・周囲の人・家族の言動を心ではかり、思考することを止めている”から。
この境遇を、この状況を、周囲の人・家族・親戚の言動を
”自分の言動でどうにかしよう、という 意識的な心掛け・努力というものを放棄しているから”
自分の言動や心掛け、努力、働きかけなどでそれら(境遇など)が変わるという考えを持つことを私は止めた。
私を含めた事象の成り行きは 天に全面委任 した。
ごく簡単にいうと”成り行き任せ”にしたということだ。
一般的に外部的要因と言われるもの、物事の成り行きというものは
私が全面努力をして、意識的に変えようとしても、変わらないものは変わらないし、
私が全面努力して、意識的に変化させない努力をしても、変わるものは変わっていく
ということを私は全面肯定し、だからこそそれをもう天に100%任せた ということだ。
”私”が ”何か”をする という”主語と目的語”を消滅させたわけだ。
そして、私が、もがこうがもがくまいが、心掛けようが心掛けまいが、一刻、一刻は天のサダメにしたがって過ぎていくし、
努力や試練も、それを努力、試練と心が感じなければ、己にとっては努力でも試練でもなくなる。
そうであるならば、自分が、境遇・状況・周囲の人・家族の言動など外部的要因に意識的に心がけて変えていく努力をするよりは
どんな境遇・どんな状況・どんな周囲・家族・親戚の”理解不可能”な言動に対峙しようと
それらに”心”を動かされず、惑わされず、
”心はいつもぬるま湯に浸からせておく”っという努力をする方が、余程”楽”であり且つ
確実に”平安がもたらされ”理にかなっているからだ。
”私の心”に問いかけてみてご覧なさい。
私が外部的要因をどうこうしようと躍起になっているのはなぜだろうか? っと。
それは 心の平安 を得たいからではないだろうか?
ではなぜ”心の平安”を 外部的要因・境遇・周囲・社会などという”外”に求めるのだろうか?
心の平安 は ”外”に求めたって無駄だ。
それは”私の裡”に求められねばならない。
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それとも達成感や満足を得たいからだろうか?
そうであるならば、己の心を(それらの外部の事象・事物で)満たそう なんて思っちゃいけない。
それは自分の影法師を捉えようとする行為に等しいのだから!
ねえ そこの
そう そこの ”私”!
欲望・欲求を満たそう なんて思っちゃいけないよ
それは 自分の影を踏もうとする行為そのもの
己の影法師と永久の鬼ごっこ
永久に時間を費やそうが
輪廻転生を繰り返そうが
心を満足させることなど有り得ないんだ
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心の問題に本能が関わる危険
満たされない心を本能で満たそうとすると・・・
不満、不安、孤独、(自己)満足、自尊心、自意識・・・を
セックスで満たそうとすると (セックス依存・恋愛依存)
食欲で満たそうとすると (過食症)
闘争本能で満たそうとすると (あらゆる暴力・戦争・人種差別)
母性本能で満たそうとすると (他者への過剰な甘やかし)
防衛本能で満たそうとすると (引き篭もり)・・・
本能に限らず アルコールでも 買い物でも
ストレスを発散させるだけのつもりが
常習化し 依存へ 中毒へ
身を滅ぼすまで延々と続き それでもなお満ち足りない
相対関係でとらえる世界に踏みとどまる限り
この世のありとあらゆるものを用いようとも
心を満たすことなど不可能
2013年6月記
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