ふるさとへ還る 追記:宙(そら)に還さむ
宙(そら)に還さむ
風神の御目に留まりしか
風 我を ふわり 抱きあぐ
風の子等
我も我もと 寄り集まりて
我も我もと 我を戴(いただ)く
一つの魂(たま)が
我へと流れ
その流れ
しらぬまに
我が身を 無為にあやつり
森羅万象の裡に宿りし
風の御魂(みたま)に まつわりしすべてを
微かな兆(きざし)導(しるべ)とし
ひとつ ふたつ みつ と
我へと 結びつく
風の 欠片(かけら)を
ひとつ ふたつ みつ よっつ
眺め 魅入り
我 こゝろの宙(そら)に
其を 還さむ
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空は 宙 であって あらゆるもので満たすことができるもの でもある
っと私は思っています。
これはまったく相容れないことをいっているのではなく
空(から)であるからこそ、 満たす ことができるんです。
そしてそれは偶然であり、必然であり、偶然と必然を超えたもの をも含有してます。
それを想うと、
”視覚的な空 と こゝろの空 の境界線 がなくなる”(ある方からいただいたコメント)
っということに、おそらくなんのなんの不思議もないことを
お感じになられるのではないでしょうか?
もちろん、、、これは空に限ったことではございません。
森羅万象の裡は、 無(空 から) ともいえますし、言葉通り 森羅万象 でもある
っと私は感じております。
”視覚的な空 と こゝろの空 の境界線 がなくなる
その瞬間に私が受け取ったモノがなんなのか”(ある方から頂いたコメント)
これは、、、 我(己我) という 己(おのれ)を、
そのほかのものと区切る壁が薄くなっているのだと思います。
無我の境地 というのは 己(己我)が無くなって 無 になるだけではないんです。
無我 のなかに ”あらゆるもの・万物を含有すること”なんです。
あらゆるもの と 己 との融合 ではないか?
っと私は感じております。
これについては 無我の境地 と記す弊害について述べた
以下の二つの記事に詳しく記してありますので、ご参照くださいませ。<(_ _)>
* 無我の境地という表現の語弊1
* 無我の境地という表現の語弊2
これを 空 ということに関して詩的に表現するならば
空のあらゆる青の、その一つ(の青・蒼・碧)に”還る”
ではないかと思ってます。
そして どこまでも広く高く広がる空と光 と 同化 するんです。
空(宙)と光と同化する ”媒体”となるのは、
美しい空の下にひろがって、鏡のように映し照らしている”澄んだ大海原(真我)”です。
その同化が有す、”偶然と必然を超えたもの”っということにもう少し言葉を添えますと、
これは
相対性の崩壊 ということを意味しています。
空は 宙(そら) であって 空(から)であって、
且つ、あらゆるもので満たすことができる ものでもある
このように境界線が透き通っている状態のときには、
何ひとつ所有せず して、全てを内在させ
満たされる = 満たす ことができます。
なぜ、 満たされる = 満たす となるのか?
なぜならば・・・
そこにはもう、主語・目的語も、主観と客観も存在しないからです。
そこにはただ ”あるがままにある”っということしか、ありえないのです。
そしてそこでは、空・光と同化するだけでなく、
いつでもどこでも自由自在に吹き透る、、、風 にもなることができます。
空が 空(から)であって、且つ、万物(森羅万象)で満たすことができる、
相対性が崩壊(己我が崩壊)した先にみえてくる場所・・・
私はそこを ”ふるさと” だと思っています。
私達はいずれ、その ”ふるさとへ” 帰るのではなく、”還っていく”のです。
*** *** ***
以上記したことを、もっと卑近な例で書き表すと、
私は、夢中、無心になって文章を打っているときには、
自分は、思考している脳なのか?タイプしている腕・指なのか?
はたまた、パソコンのキーボードなのか?わからなくなるときがあります。
(私がこれから記そうとしていることは、私よりも、
キーボードが知っているような気分になるときがあります)
夢中で、Tombak というイランの民族打楽器を打っているときもそうです。
心頭、没頭していると、音を意識している我は
Tombakを打っている我なのか?はたまた打たれているTomabakなのか・・・
我とTombakの境界がわからなくなるときがあります。
空手をしていてもそうです。
集中して、身体を動かしてしばらくすると・・・
我は我なのか?突きをうっている腕なのか?
蹴りを放っている脚なのか? わからなくなるときがあります。
このとき私は こゝろ を 空(宙)に委ねているのだろう・・・
っと私は想うのです。
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