前置きが長くなったけれど、お話の続きを。
”魂を吹き込むっということには、
言語は関係ない っと感じている。”
外国語を学ぶ醍醐味は、やはり会話にあるのだろう・・・
っと個人的には考えている。
ペルシャ語を覚えると、タジキスタンの人とも会話できる。
タジキスタンの公用語はペルシャ語だから。
おそらくイランの周辺の国には、イラン系の人がいるから、
アフガニスタン、パキスタン、イラク、アラブにもペルシャ語を話す人がいるだろう。
当然だけれど、世界中にいるイラン人とも会話ができる。
ドイツに行った時に、ドイツ語がわからなくても、
ドイツにいるイラン人がペルシャ語を話していると
完全に話の内容がわかる・・・
その人たちは、まさか隣のベンチに座っている
息子とわたしが会話を耳にして、100%その意味を理解しているとは、
全く思いも寄らなかっただろう。
ちょっと、いじわるだったけどね。
でも、言葉をしっていればしっているほど、
言葉を通して得られる魂、エネルギーを受け取れる。
会話は意思の疎通をしているだけでなく、
実は魂の交流をしているのかもしれない。
とくに、ある人との関係が、言葉に頼る部分が多い場合は、
言葉の力を、大いに発揮できるのだろうと想う。
そんなことが分かってくると、
いかに英語(世界の公用語)が大事かってことが
ヒシヒシと感じられてきた。
(自分の国を一歩外にでたら、
身をもってそれを感じるだろうけれど。)
遅ればせながら、最近英語の勉強を
わたしがいそいそと、おっぱじめたのはそんなことが、
ぼや~~~~~んと見えてきたからだろうと想う。
この辺のわたしの感じたことをもっと詳しく記すと、
笑顔やら、視線、ちょっとした仕草や言葉にも、
意識しているしていないにかかわらず、
魂が宿っているわけだから。
言葉が日本語であっても、英語であっても、
もちろんその人の印が刻まれていることに変わりはない。
っということに気がついた。
そして英語で自分の思ったことを表現してみたら、
どうだろうか?
っと書いてみたら、、、、その言葉は、
英語であっても、やっぱり わたし。おもしろ~~い!
っと思った。
でも、その魂の印をはっきりくっきりさせる、
魂を意図的に刻む(吹き込む)、発信するには、
日本語、外国語を問わず、
その言葉の表現やら、語彙をしっていることが
大きな助けになるっということも同時に、
わたしには感じられた。
言葉は手段なのだろう・・・
ただし、侮ってはいけない。
言葉に頼りすぎても、
まったくそのあたりの言葉の効用をないがしろにしても、
言葉の力をうまく行使できないのだろうと感じている。
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