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カテゴリ:私見
ある日突然、何かがきっかけとなって、 未分化の意識でもある ”ふるさと” の存在を想いだします。 しかし未分化の意識に回帰していく姿は、 己のゴールを目指し、世界の果てを制覇しようとする われ(人々)には、 ”退化していく”ように感じられるでしょう。 われ と その他のもの という壁を透けた先にある、 どこでもドア(ドラえもんの)を介して繋がれている 万物根源の”ふるさと”は、思い出し、思い浮かべさえすれば、 われ は、いつでも何処からでも ふるさと に通じているのだけれど・・・ なにはともあれ一旦、ふるさとの存在に気づき、 われ がふるさとへ向かえば向かっていくほどに われ と森羅万象の存在が重なれば重なっていくほどに、 われから引き離し、万物を対象化していくことの意味、 ありとあらゆるものにつけられた名前というものが存在する意味、 言葉の意味、言葉を遣う必要性も、薄れていくように感じられます。 そして同じことが、ふるさとでなくとも、 ある存在がわたしの意識と重なっていればいるほどに その存在 と われ との壁が透けていればいるほどに、 言葉を介する ということそのものが ”失せていく”のだろうと わたしは想うのです。 (完) にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015年06月23日 04時25分06秒
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