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カテゴリ:私見
木曜日に私がちょっぴり発熱した前後に、息子が結構な熱を出して、 学校を休んでいたりで落ち着かない。 楽器の稽古の時間もいつもよりもとれず、今週は習ってすぐにおさらいしておいて、本当によかったと思った。 息子は明後日に学校主催の数日の旅行に行く予定だけど大丈夫なのか....。 熱は下がっているけれど、頭痛、鼻水がいまだに酷い状態。 義母の膵臓癌は去年の秋の始めの頃の検査結果の倍の大きさになっていて、そろそろ肝臓?腎臓?に影響が及びそう。 そうなると黄疸の症状が現れるので、進行を少しでも抑えるために放射線治療を始めるとか・・・ これも去年の秋の前だったか?義姉2から義母の病気をカードで見て欲しいと言われたことがあった。 書き留めてもいなかったけれど、義姉に伝えた内容ははっきり覚えている。 私は義母が真っ黒のチャドルで診察台に上がっている夢を、 ブロ友のChiichanさんと知り合ってまもない頃にみていたので、去年の夏のはじめに急激に義母が痩せた時点で悪い予感がしていた。 これもつい最近しったのだが、数年前に義母は本人も気づいていたのか、いなかったのかわからないけれどB型肝炎に罹っていたらしい。 父が末期ガンと知らされた時も、その一年ほど前に父の身体がどんどん黒くなって埋め尽くされる夢をみていたこともあった。 私は未来は知りたくないのでみない。夢で見させられるのは仕方ないけれども.... とくにこの数年、好んで未来をのぞきたいとはまったく思わなくなった。 占いという言葉があるけれど、占星術、手相、カード、水晶、珈琲、紅茶にしても、そういうものを媒介に先行きの予見をするもので、簡単に言うとそこに何かが見える、思い浮かぶということだと私はおもっている。 だから、みたくなかったらみなければいいけれど、夢はみさせられるものだし、その人の顔色やら、本でふと目にした言葉やら、絵や、それこそ、街の看板、ナンバープレートなどからも、見させられることがある。 知らされるときはどうしても知らされるもの だ。 そして、ある人(私に対して強制力を持つ人物)を使ってみさせられることもある。 嫌だな、、、っと思いながらも義姉の頼みだから断れず仕方なくみることになった。 お義母さんはイランのお正月(春分の日からエイプリルフール)までは元気だけど、 そこからだんだん悪化して、夏は辛苦の期間でそれでもなんとか過ごせるかな....イランのメヘル月(天秤座の月)がもっとも危険。 っということをカードからみて伝えた。 インド占星術でも見て欲しいと義姉2に言われみさせられた、、、 インド占星術は大まかなことしか私は見られず、何時まで生きられるかはわからなかったけれど、お義母さんが命を落とす病気の中にある状態はみてとれた。 義姉1の子宮癌の件では、どうしても見て欲しいことがあると、本人が直接私に電話してきた。 その電話で彼女は(なかなか言わず、実に遠まわしに遠まわしに、、、)子宮癌であることを伝えたのだった。 このときの星図も彼女の病状をよく示していた。 金星(女性性器)と土星はほぼ九十度でコンタクトしていた。 これが意味するところは深刻な重篤な病状でしかなかった。 唯一の救いは太陽(医者)と火星(スピード・手術)が三十度で良いコンタクトをしていたので、 大至急太陽のように権威のある、ライオンのようなそんなイメージの医者の手で手術すれば大丈夫っと答えた。 義姉は数日中に何人かの医者と病院の中から一人を選ぶ、摘出手術をどの医者の手に委ねるかで悩んでいたところだった。 幸い太陽、ライオンというイメージでどの医者なのかすぐにわかってくれた。 義姉1に子宮癌がわかる前にも私は二度彼女の旦那さんが悲惨な目にあう夢を見ていた。 私はこういうものは見たくも知りたくもない。 あたっても嫌だ、あたらなくても嫌だ、当たり外れでみられるところが既にもう嫌でしょうがない。 占いなんかは当たるも八卦当たらぬも八卦で、あたってもあたらなくても笑って済ませられるの娯楽や余興で良いと思っている。 それでもみさせられるのは、どっかの誰か?の仕業であるとしか思えない。 私がいなくても結果は変わらないのを、私は知っている。 私は単なる道具で、カードや夢となんら変わらない存在なのだ。 私がいなかったら別のどっかから何かから、あるいはその人自身で選択してその道を歩み、その結果を辿るのだから。 私を使わなくても進んでいくことなのだ。 人がなんとか最善を尽くそうとするその心の動きが、 占いというものの必要性を生んでしまうのだろうけれど、 占いだけでなく予定、予見、予想はあってもなくても全く構わないのだ。 一年先、一ヶ月先、否、三日後のことでさえも私は見たくないのに、 人様の病状や命にかかわることなどとんでもなく知りたくない。 一瞬一瞬はおおいなる力に委ねるべきものだと私は思う。 これは人任せ、神頼みとはまったく異なる。 経過は即ち結果と知ることだ。 経過を見続けることこそが、どんな結果をも既に受け入れているということに他ならないのだから。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017年05月07日 04時53分26秒
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