カテゴリ:カテゴリ未分類
ひろさちやという名前の仏教啓蒙家がいた。2022年4月に亡くなられた。仏教だけでなく、キリスト教、イスラム教、神道の本も出されているので宗教評論家ともいえる。「ひろさちや」はペンネームで、本名・増原良彦。1936年、大阪に生まれる。関西人である。東京大学文学部印度哲学科卒業。学校は東京であるが、関西人らしく、東京の知識人とはちがい、反権力、反知識人的な評論活動が特徴のような気がする。 仏教というと難しいという印象で、仏教書を読んでも中々腑に落ちない感じがする。特に漢字がむずかしい。やさしい漢字でも、輪廻、業(ごう)、般若、中道、縁起、空、無我、解脱等の概念、意味となるとなんのことやら、さっぱりである。国語辞典には意味が出ているが、仏教本来の意味はどうなのか、わからない。頭で意味がわかったとしても、体で体験として意味が浸み込まなければナンセンスである。普通の仏教書では、これらの言葉で論じられるが、大抵、途中でギブアップである。 「ひろさちや」というひらがなのペンネームはめずらしい。どういう意味か。なにか哲学的な意味がありそうである。「幸(さち)」を「弘(ひろ)」める、という意味ではないかと、当方は解釈している。この人の評論活動は、仏教哲学を一般の人にできるかぎりやさしく解説する方針が徹底されているようである。そのための具体的方法が譬(たと)えや身近な話題で仏教の哲学概念を敷衍するという方法である。例えば「空(くう)」という概念も「こだわらない」とパラフレーズする類である。普通の宗教学者は「空」だけで、一冊の本を書いている。 「ひろさちや」を図書館で目録を調べてみると200冊くらいの本が出てくる。ある本の著者紹介には600冊の本を書いていると出ている。毎月1冊本を出しているとして、12冊を50年にわたって出しているとということになる。松本清張なみのベストセラー作家である。 この人の本に「ひろさちやのいきいき人生ー釈迦にまなぶ」(春秋社)がある。「人生論から仏教を考える」という、この人独特のヘヤピンカーブの効いた論書である。この中に、仏教学者の解く「四諦(したい)」は間違っている、という章がある。間違っているというより、解釈の違いではないか、という気がするが、ともかく「いきいき人生」のために「四諦」という考え方を、どのように応用するかという趣旨だろうと思う。 「四諦」とは4つの真理」という意味である。ほとんどの仏教書は教理の解説は小乗仏教的解釈で説明される。本の中ほどで日本の仏教は大乗仏教であると論述が変わる。ここで混乱が起こる。今までの説明は何だったのか。小乗仏教とは出家者のための仏教。つまり坊さん専用の仏教である。大乗仏教とは在家信者用の仏教である。仏教書を読むのは専門の坊さんが大多数だろうということで、仏教学者は小乗仏教の説明をしてしまう。一般人が、こうした裏事情を知ってないと、仏教書はさっぱりわからない、ということになる。 大多数の仏教書の「四諦」の説明は、こうである。 1、苦諦(くたい)…苦に関する真理 2,集諦(じったい)…苦の原因に関する真理 3,滅諦(めったい)…苦の原因を滅する真理 4,道諦(どうたい)…苦の原因を滅する方法(道)に関する真理 仏教理論の核になる教説だが、人生は苦であると認識し、その苦の原因は欲望、煩悩にあると明らかにし、それを滅すれば苦はなくなる。その欲望、煩悩を削除する方法が道諦だという理論だ。職業的お坊さんは、そのためにお経を読んだり、座禅をしたり、乞食(こつじき)をしたり、比叡山の山道をマラソンしたり、滝に打たれたりと様々な努力をしている。在家信者が、こうしたことを真似したら、大抵病気になってしまう。ひろさちやは、これは小乗仏教のやり方で大乗仏教とは違うと言う。 在家仏教である大乗仏教では、どのように解釈するか。その前に「苦」とは何かを押さえておく。生・老・病・死が四苦で、それに加えて愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦の四苦を加えて、四苦八苦という。仏教的に苦を分析しているのだ。詳しく知りたい方は同書(釈迦にまなぶ)を読んでもらうとして、ポイントは「生」。これを多くの仏教書は「生きていること」が「苦」だと解釈している。これだと最後の「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」と同じことになってしまう。「五蘊盛苦」とは、生存自体が苦であるという意味だからだ。ひろさちやは「生」を人間が赤ちゃんとして生まれること、母親の産道を通って生まれる意味だと解釈する。大抵の人間は、この苦しみは忘れている。それと「死」も死それ自体は感覚がなくなるはずで、「苦」もへったくれもない。ただし現代ではガンで「あと半年の命」と医者に宣言された時や、交通事故などの場合は苦しみがあるだろうが、釈迦の時代には想定されていない。問題は「老」と「病」なのだ。本ブログ読者の多くが直面している「苦」のはずだ。 さて四諦の「諦」とは、「あきらめる」と訓読みできるが、これは「断念する」という意味ではなく、「真実を明らかにする」という意味である。仏教学者であるひろさちやが、これが間違いだと気づいたんは古希(70歳)の時だという。まず、生存が「苦」だというのは、医療とのアナロジーで言えば、熱がある者はすべて病人と言ってるようなもので、少しくらい熱があっても、子供は外で遊ぶし、大人はパチンコに行ける。しかし最近は熱があると言えばコロナと疑われるが、熱があっても自分が病気と思わなければ、病人にはならない。 苦を「苦」と思うから、「苦」になってしまう。苦を「苦」にしないというのが大乗仏教の教えだという。病気も、老いも「苦」にしなければいい。と言っても簡単に、そういう心境にはなれない。それをどうするかが、この本の後半部分だ。 次が「集諦」だ。小乗仏教は欲望が「苦」の原因だとする。大乗仏教では、一切の事象が起きる原因はわからないとする。原因は一つではなく様々な要因が集まっている。だから「集諦」と呼んでいる。大乗仏教的には原因を「因縁」という用語を使っている。 次が滅諦。「苦」を滅する。大乗仏教では「苦」をそのまま引き受けて生きろと説く。ひろさちやの表現では「南無そのまんま、そのまんま」になる。病気になれば病人として生きるよりほかはない。 四諦の第四は「道諦」。「苦」を滅する方法論で、小乗仏教では八正道を実践せよと教える。正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定。いずれも「正」の文字がついている。これをどう解釈するか。「正しい」の意味と捉えて、正見は正しい見方か。ひろさちやは「正」を「明らめる」意味だと考える。だから正見は「明らめる見方」となる。正思以下は正しいと捉えて、「明らめる見方」をするために、正しい思惟、正しい言葉、正しい行為、正しい生活、正しい努力、「正定」は正しい精神統一になるが、これもひろさちや流は、心をのんびり、ゆったりさせることが「正定」だと考える。 独特な仏教解釈だが、ひろさちや教に入信したい方は図書館で著者目録で「ひろさちや」と入力すると大量の本が出てくる。どれを読んでいいか、分からないと思うのが普通だ。まず本ブログで紹介した本がわかりやすい入門書だ。さらに突っ込みたい方は「仏教の歴史」(全10巻、春秋社)。10巻本のすごい本だが、1~3巻がインド編で、インドの仏跡をひろさちやが観光ガイドになって巡り歩く、非常に読みやすい本だ。ポイントとなるところで仏教の基本が説明されている。次が中国編、日本仏教編とつづく。 「ひろさちやの般若心経88講」(新潮社)。これが数多の「般若心経」本のなかで一番わかりやすい。3分間で読める講義が88回。短い文章の中、見事な説明である。譬えを多く使っているのはひろさちや流である。あまり分かり易くて、なんにも残らないと感じた方は、もう一度読むことをお勧めする。読み飛ばしが相当あることに気付くだろう。読誦CDは付いていない。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.09.01 10:35:07
コメント(0) | コメントを書く |
|