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2007年01月23日
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今、全国的にフラメンコが盛んになっており、その人口も年々増えているようです。日本におけるフラメンコの指導者や舞踏教室が世界中のどの国よりも多いといわれ、国内舞踏教室生徒数は2004年の時点でも計8万人を超えているとみられています。一方フラメンコの本場、スぺインのアンダルシアを中心とした有名レッスン場に通う生徒の大多数が日本人とか。日本のフラメンコ熱は世界の中でも群を抜いているようです。

 最近福井県内でも、勤労青少年ホームなどの公的なところでフラメンコの踊りを気軽に楽しむ人が増えており、その裾野が広がっているような気がします(気軽にフラメンコのページ参照     フラメンコのビデオ )勤労青少年ホーム(大野市、福井市)や公民館(福井市内)、カルチャーセンター(福井市内)でフラメンコ講座が開設されているほか、敦賀市内でも経験者がフラメンコ活動を始めており、フラメンコに関心のある方を気軽に受け入れる体制ができつつあるようです。福井県内にはフラメンコの舞踏教室(福井市、鯖江市)もありますが、今後の発展を考えると、公的なところで気軽に踊れる環境が欠かせないと思っていただけに、このような動きは、フラメンコに関心がある方、 または関係者にとって喜ばしいことだと思います。

 ところで、今日に伝わるフラメンコの音楽や踊りの原型ができたのは、今から200年余り前の18世紀後半の頃といわれています。この頃はヒターノ(ジプシー)の世界だけでフラメンコを楽しんでいたようです。18世紀後半から19世紀中頃までの初期段階は、カンテ(歌)もバイレ(踊り)も、主としてパルマ(手拍子)で演じられるのが普通で、たまにはマルティネーテ(ハンマー)やバストン(杖)が加わることもあったいう。19世紀後半になって、ようやく、トーケ(ギター)がカンテ(歌)、バイレ(踊り)の伴奏部門を一手に引き受けるようになったのですが、それまではもっぱら、パルマ(手拍子)によってカンテ(歌)、バイレ(踊り)が演じられていたようです。今日ではカンテ(歌)、トーケ(ギター)、バイレ(踊り)はフラメンコの3代要素、パルマ(手拍子)は4番目の要素ともいわれています。パルマ(手拍子)には今でも踊り手の立つべき大地を形成する大きな役割があるようです。

 1860年から1910年頃にかけて、カンテ(歌)、トーケ(ギター)、バイレ(踊り)は飛躍的に発展したようです。この頃には、ヒターノ(ジプシー)の狭いエリアだけで演じられていたフラメンコが、今のライブハウスやダブラオのようなカフェ・カンタンテの舞台でフラメンコが演じられるようになり、一人のトーケ(ギター)だけの伴奏に合わせて、男女カンタオール(歌い手)やバイラオーラ(女の踊り手)、バイラオール(男の踊り手)が演じられ、今日に伝わる大方のリズム形式が完成されていったようです。このカフェ・カンタンテの時代には、ヒターノ(ジプシー)が職業的な形でフラメンコをパージョ(スペイン一般民衆)の前で演じるようになり、パージョ(スペイン一般民衆)の実力あるカンタオール(歌い手)も登場したことから、フラメンコはアンダルシアのパージョ(スペイン一般民衆)に親しまれている歌を取り込みながら、次第に大衆化していったようです。ヒターノ(ジプシー)の音楽や踊りがフラメンコの愛称で呼ばれるようになったのもこの頃のようです。「フラメンコ」という言葉は19世紀半ばごろから、「ジプシー」、「ジプシーの音楽や踊り」という意味で使われていたのですが、この頃には、カフェ・カンタンテで演奏するプロ芸人が作った都会音楽を指すようになったともいわれていいます。

 1910年以降になると、カフェ・カンタンテがフラメンコ以外の娯楽登場などで衰退していったことから、フラメンコアーティストはスペイン国内、諸外国へ舞踏団率いた巡演に活路を見いだしましたが、このような流れの中で、日本にも有名なアーティストが相次ぎ来日、それが日本にフラメンコが伝わるきっかけになったようです。昭和4年(1929)にはフラメンコ舞踏家、ラ・アルヘンティニータが、昭和7年(1932)にはフラメンコギター演奏家、カルロス・モントヤがそれぞれ来日し、その頃からカンテ(歌)やトーケ(ギター)のレコード輸入が増えていったとみられています。その後、昭和25年(1950)代、昭和35年(1960)代になると、多くのフラメンコアーティストが公演のために日本に訪れるようになり、日本人のトーケ(ギター)演奏家やフラメンコ舞踏家が育っていったようです。

 昭和4年(1929)といえば、ニューヨークウォール街で株式が暴落したのを機に、経済恐々がソ連をのぞく全世界を襲い、この影響で福井県下の絹織物業は不振にあえぎ、これにかわって、人絹織物が盛んになっていった。そして昭和7年(1932)には、人絹糸の全国消費の6割を占める福井に世界で最初の人絹取引所が造られ、福井は人絹王国を謳歌していた時期でもあります(福井県繊維産業史と県民性の日記参照)。この頃に、異国のフラメンコが日本に初めて伝わってきたようです。

 1950年代から1960年代になると、タブラオが登場するのですが、これによってカンテ(歌)とトーケ(ギター)はソロというそれぞれの活動分野だけでなく、新たにバイレ(踊り)の伴奏という活動分野が確立されていったようです。この頃は一般的にフラメンコのルネサンス時代といわれています。

 フラメンコにおいてヒターノ(ジプシー)は最も大きな役割を果たしたようですが、ヒターノ(ジプシー)がインドからアンダルシアに定着しなければ、またはアンダルシアにもともとあるすばらしい音楽の下地がなければ、フラメンコは芽生えなかったのではないか、ともいわれています。それは、ヒターノ(ジプシー)がアンダルシアに伝わる歌や踊りに、ヒターノ(ジプシー)民族固有の要素を付け加えてフラメンコを作り上げたと考えられているからです。15世紀にスペインに入ってから、ヒターノ(ジプシー)は厳しい差別や迫害を受けたようですが、その苦しみの中から、神秘的、霊感的ともいえるフラメンコの民族芸術が作られていったようにもみえます。






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最終更新日  2007年01月25日 15時15分03秒
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