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カテゴリ:ふるさと福井あれこれ
私は関心があって、新田塚はじめ周辺の歴史を学習したとはいうものの、歴史の専門的なことはわからないことばかりです。しかし、歴史の詳しいことはわからなくても、新田塚町の歴史をおおまかにイメージできるようになったことからも、新田塚の氏神さん、新田義貞公の歴史に触れる貴い時間であったといえます。
藤島の戦いでは、足利方斯波軍に寝返った平泉寺衆徒が立てこもる藤島城(砦)を偵察するため、本陣から藤島城へ軽装で向かったのですが、1キロ余り行ったところ(灯明寺畷)で藤島城へ救援に向かう敵の歩射部隊と遭遇し、新田義貞はここで戦没したと伝えられています。藤島の戦いに遭わなければ、本陣には新田軍3万余騎が集結していたと伝えられていることから、300余騎にすぎなかった斯波軍の本拠地、小黒丸城(黒丸城)の陥落も、時間の問題ではなかったのかーと考えられます。 藤島の戦いで戦没した南朝方・新田義貞の遺骸は、北朝方・斯波高経が長崎称念寺に埋葬したと伝えられています。そこは現在、新田義貞公の菩提所・称念寺として知られていますが、立派な唐門があって、その内側にお墓があります。 また、新田義貞が使っていたとされる兜(国重文)は、新田義貞を祭神とする藤島神社に保管されています。 藤島城址は新田神社から東へ7~8キロのところ(現福井市藤島町、西超勝寺)にあります。 新田軍の本陣があったところは芦原街道・灯明寺交差点の白山神社付近と伝えられ、その頃そこには、平泉寺の末寺、天台宗の燈明寺があったようです。新田神社から1キロほど北へ行ったところです。 小黒丸城(黒丸城)は、新田神社から北西へ5~6キロのところ(現福井市黒丸町)にあります。 新田義貞公の菩提所・称念寺は、新田神社から車で30分ぐらいのところ(坂井市丸岡町)にあります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年10月05日 07時45分36秒
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