過去の自分と呼応する
昨日の日曜はせっかくのいいお天気だったけど、家にこもって家事や片付けをのんびりやった。ちらかしやさんの私は、デスク周りが超~ちらかってて、ものがごたごたしている。いろいろ捨てたり整理したりしなきゃ、とずーっと思っててもなかなかできない。私にとって、ものを片付けるのは、ものを片付ける"時期"があってそれまではついほったらかしにしてしまう。自分の心が何かを探り当てるまでは、どうにも整理のしようがない。それが、昨日は少し進んで、デスク周りを少々片付けた。最近やっと流れてきたようだ。いろいろ片付けたくなってきた。しかし、友人からのポストカードが出てくれば読むし、お気に入りの画集は眺めるしでほんとに時間がかかってしまう。過去への執着心がひと一倍強いと自覚している。日記にしているノートが出てきた。まだブログを始めていないときのノートだ。それもつい読みふけってしまう。そして過去にさかのぼり当時の自分自身と呼応する・・2003年9月20日(土)人はすべて亡くしたときに初めて、偽らざる欲望と生きるための力をはいずり回って泥をつかむように、つかもうとするのではないか。それは不幸なことだろうか?そうとは一概に言えないのではないか。2003年11月18日(火)ものを捨てること、またやり直しだ。ものを捨て、入れ替えていかないと、新しいものは入ってこない。新しく歩もうとしてるのに。それは心の問題、覚悟の問題だ。惜しむ気持ち、懐かしむ気持ち、忘れ去りたくない気持ち、つまり執着が邪魔しているのだ。何が必要で何がいらないか。まだしがみつき、捨てる努力をしていないようだ。2003年11月30日(日)何が正しくて、どうすればよかったのか。いつまでもいつまでも頭をもたげてくる疑問、迷い。もうとっくに過ぎたことでも。2003年12月4日(木)私のすべては私と共に滅びる。何も残りはしない。2003年12月15日(月)すごく遠くまで来た。そしてもっと遠くまで行く。それはひとりで、かもしれない。Kちゃんと話してそう思った。そしてKちゃんが望んでいるところとは違っていく可能性がある。そのずれを今日少し感じた。それでも見守る強さ、大きさがKちゃんにはあるとも思えるが、でもついてはこないかもしれない。それでもしかたない。私は遠くへ行くだろう。突き進むだろう。誰もいない北の海辺まで行くだろう。銀河の果てまで行くだろう。むき出しにむき出しに。Kちゃんもびっくりするくらい。しかし本来の自分を出してびっくりされるのは心地いいものだ。嘘つきと言われてこんなに嬉しかったことはない。面白いと思ったことはない。偽悪的な自分を発見した。誤解したKちゃんのほうが傷ついたことだろう。残酷。残酷ってどういうことだろう。真実は時に残酷だと言うけれど。2003年12月16日(火)私の座っていた場所から私を追い立てること、私にまつわる執着にも似た人間関係を一旦無に帰すこと。そこから新たな私を、人間関係を打ち立てること。一連の出来事は、そのことを一途に実行することだったのだ。慰めも労わりもいらない。自分の弱さと強さを知っていて、自分を支えている。2003年12月17日(水)パリから戻ってきた頃の気持ちの状態を思い出している。そしてまたPierettaを解散したあとの頃の。それらの状態に似ている。喪失と獲得と。不思議な状態。久しく忘れていた鋭敏な感覚。ひとり水の中にいるとき、耳に水圧を感じ、周りの音は遠く聞こえるけれど、はっきりと遮断されている、あの感覚と似ている。2003年12月18日(木)駅のエスカレーターに佇んでいるとき、少し遠くに一瞬Gの後ろ姿を見た気がした。見上げた先にいたのは、少し服装の雰囲気の似た誰かだったのだろう。そのとき無性に私は、Gの幻影の後ろ姿、少し前、少し上を行く姿に、強くなりたいとはっきり念じた。夜の蛍光灯の無機質な、暗く白光りする駅構内で、しかし一瞬空気が洗われ落ち、小さな強い光が私に宿った。光る石を握り締める感じ。こうしてまだまだ遠くへ行く。2003年12月27日(土)捨てなきゃ動けない。自由になれない。重たいものは捨てて捨てて捨てて、身軽になって初めて走れる。しなやかに走れる。旧世界。旧世界に属するものたちとの別れ。旧世界。なんと心懐かしい、そしてちょっと哀しい響きを持つ言葉なのだろう。2004年1月1日(木)砂漠に立つ神殿。古く美しい神殿。それを支えるエンタシスの円柱が1つずつ倒れ、最後の1本がくず折れた。がらがらと崩壊した。その中に優しく守られていたのに。ほっと息をつけたのに。そこで豊かに育まれてきたのに。自らこわしたのだ。そしてその残骸の下敷きになり、傷つきうめき血を流した。しかしまだ生きている。生きていける。それを知っているからこわしたのだ。私はまだ血を流し続けているけれど、残骸を踏みしめながらこれからどこへでも行ける。どこへ行くのかはわからない。しかし旧世界を去ることは確かだ。2004年1月2日(金)何故だろう、私はもう以前ほど砂漠や荒野を夢見ない。それは既に私がそこにさまよい出てしまったからかもしれない。安らかな堅固な神殿の中に守られているからこそ、それら不毛の地へ心が魅きつけられていたのではないか。もうすでにそこにいる。そして次の行くべきところを探している。2001年秋、自分に対しテロを起こした。突然の崩壊。自分自身を揺り動かし、安全の地から追い落とした。私は今荒野にいる。荒野にいる。崩れた神殿の残骸がある。そこにはもう涙は注がない。荒れ乾いたままにしておく。そこには神官の高潔さ、哲学者の智の言葉、巫女の歌声などが幻のようにつきまとってはいるが、思念に過ぎない。私は兵士だ。私はジプシーだ。旅人だ。2004年1月16日(金)自由と孤独。広いところ。ひんやりしたところ。淋しくて淋しくて泣きたくなるところ。嬉しくて嬉しくて泣きたくなるところ。自分が世界へ流れ出し、そして全てが自分に戻ってくるところ。何か透明な硬質な気配が、ゆっくり旋回し上空のかなたに限りなく散り広がっていくところ。それをじっと見上げ、高みを憧れ続けるところ。私がいて、ぼーっと座って、地の声を深く深く聴き続けるところ。2004年5月31日(月)羅針盤。回り回り指すべき方向を見つけあぐねている。旅している。流れている。立ち止まり、また歩いていく。