「ロダンとカリエール展」
上野の国立西洋美術館へ「ロダンとカリエール展」を見に行った。昨年のプーシキン美術館展でとても興味を持ったので主にカリエールを見たいと思って行ったのだが、ロダンの作品や人生と、次々とらせん階段のように絡み合わせながら、2人の親交や共通性を感じさせる、ちょっと不思議な感じの展覧会だった。カリエール「母と子」、淡く彩度の低い緑、茶・・彼の基本をなす色だと思う。この作品もそうだけれど、カリエールには、茶褐色のうねるような筆致の中に、人物の肌が浮き出てきたり、人物どうしが親密に溶け合って一体化している描写が多く、特徴的。カリエール「アルマ広場でのロダン展ポスター」、2人の親交をダイレクトに示すわかりやすい例。デザイナーとしてのカリエールを垣間見ることができる。カリエール「胸像に向かう彫刻家」、背景に塗りこめられていて一瞬それとはわからないが、じっと見てると、横顔や手や胸像が浮かび上がってくる。暗闇に目がなれるのと似た感覚を覚える。カリエール「鋳造家」、珍しくコントラストのはっきりした作品なのはリトグラフだからだろうか?遠くからぱっと見たとき、なぜか楽器を連想した。実際は労働者が力をふるって、金属を溶かす作業をしている絵なのに。滑らかな曲線がコントラバスとかチェロのような楽器のフォルムを、また金属の溶けて流れるさまが、音の流れを感じさせたのかもしれない。ロダンのブロンズ作品「彫刻家とミューズ」、非常に物理的に重さを感じさせる表現だ。座っている男の上半身に、半身をくと折ってのしかかるミューズ。耳元で何かささやきかけるように、男の肩に頭をのせている。ミューズの長い髪は波打って男の頭に流れかかり、からめとりまるで頭脳を支配しているかのごとく、一体化している。男は手で口を押さえ、顔をゆがめ、左側へ上半身を傾斜している。まるで芸術家であることの運命の重みに耐えているように見える。ミューズは女神というより、むしろファム・ファタールのようだ。これは彼自身の姿の投影なのだろうか。かくも力強く、評価も高い作品を多く生み出した彼の、知られざる一面なのだろうか。それに比べ、ロダン「ウジェーヌ・カリエール記念像のための習作」では、同じ芸術家とミューズを題材にとっていても、その趣はずいぶん異なる。男にのしかかっていたミューズは身軽な天使となり、翼をもち、立っている男の肩にきゃしゃな膝をそっとつき、上方からはすに男を覗き込むようにして、高みへといざなっている。習作だからか、ブロンズではなく石膏の小さな像なのでその白さがより軽やかさを感じさせる。ここではミューズに魅入られたことは、重圧ではなく高みへ飛翔する契機なのだ。カリエール記念像にそうした姿を描いたというのは、ロダンはカリエールをそのような芸術家とみなしていたのかもしれない。それはまた、芸術家としての理想像であったのだろう。この2作品を並べて展示されているのが興味深い。当時の政治家や芸術家などの肖像を並べたコーナーも興味深かった。ロダンとカリエールが同じ人物をそれぞれ描き、彫った作品で見比べてみると、どれも写実的だけれど印象が異なっていた。カリエール「瞑想~カリエール夫人」、ぼやけた白黒写真のよう。夫人が頬に指をあて、物思いに沈んでいるというよりは、精神が上昇していく様子を感じる。カリエール「母の接吻」、プーシキンで見たバージョンの「母の接吻」ではうねるような筆致が多用され、ムンクを思い起こしたが、こちらのバージョンの少女は、やはりムンクの初期の傑作「病める子」の少女の横顔を彷彿とさせる。頬のこけた病的な少女の横顔が痛ましい。腕も細く、手の甲の骨が浮き立って翳りが濃い。母の抱きしめる腕に身をゆだね、額にキスを受けつつ、ほとんど忘我状態に見える。こうした一連の母と子の作品は、体を密接に寄せ合い、身体と意識、感情の流れが一体化し、かたまりとなっているところがやはりロダンの彫刻作品と通ずるものがあると実感した。カリエール「夢想のための習作」、夢みるような雰囲気の女性の肖像。習作なのに詩情と気品あふれる作品。全体がセピア色で、描き込まれていない部分もあるが、その"抜け"もいい。カリエール「道行く人々(一連の壁画装飾の断片)」、見上げるほど大きな作品。どういう状況かわからないけれど、祖母らしき老女が左手奥に、中央が母親らしき女、右手前に子供が立っている。彼女らは歩いていないので、恐らく通りを行き過ぎる人々を見ているのだろう。道行く人々は着飾ったブルジョアの一行か、兵士たちの群れなのか、或いはシュプレヒコールを挙げる民衆なのか。それとも彼女らよりももっともっと貧しい者たちの行列なのか。それはわからない。老女は身体をはすに構え、憤り、嘆き、嫌悪、諦念などの入り混じった表情。右腕をだらんと落としているが、中央の女の後ろで見えていない左腕は、腰にくっとあてているのではないかと思える。中央の女はマントですっぽり身体を包み、マントに包んだままの手で口元をおおっている。まゆをひそめ、静かな様子ではあるが、怒りのようなものを冷たく凍らせている。マントによって目の前の一行を避け、身を守っているといった風情。手前の中性的な子供は、賢しげで、どこか諦念の備わった、無邪気さのない、冷めた大人びた表情。胸をはり、手を前でそっと組み、凛とした様子。しっかり前を見つめ、現実を把握しようとしているように見える。年代の異なる三者三様の姿勢と表情の違い、語りかけてくるものの違いが興味深い。身を寄せ合って生きているであろうこの3人が、茶褐色の濃淡だけで、一体となりながらも心の志向の違いまで際立たせて描かれていて、目をひく。ロダン「回復」、大理石の中から頭をもたげた人物の像。静かに両手をそれぞれ真横から口元へあて、まだ少し不安げに寄せられた眉をしているけれどすっくりと力みのない表情をしている。肉体の回復か、魂の回復か。ふと石の中から顔と両手先だけが浮かび上がり、何か、今生まれ出たかのような鮮烈な印象を受ける。なぜか、海を感じる。本当に不思議なことだけど。「ロダンとカリエール展」は上野の国立西洋美術館にて2006年3月7日(火)~6月4日(日)まで。このあと、常設展を見たのでまたアップしたいと思います。