カテゴリ:思索・読書
「哲学としての仏教」12月に買って全然着手できていなかったが、 やっと読み始めた。 そして先日知人に、久しぶりに私の28歳のときの"覚醒"のときの話をしたことが 何故かしきりと思い出されてしょうがなかった。 あの爆発的な覚醒、あれはニーチェでいうところの "駱駝"から"獅子"になって吠え立てている感じだ。 どうしようもなく"ある"ことを認め、受け入れた、 理不尽なこと、辛いこともそれが人生なのだ、とわかり前向きに受け入れ、 同時に自分という存在や意志などもどうしようもなくそこにあり、 むき出しにすることを自分に認めさせたのだ。 "有"を受け入れたと言える。 しかし、数年前からこうして仏教を学んだりして わかろう、受け入れようとしているのは、"無"なのだろう、と思いつく。 次の段階、自由な"赤子"の段階に行くには"無"や"空"を 本当にわからないと行けない気がする。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.02.12 23:54:07
コメント(0) | コメントを書く |
|