国定指史跡 比企城館跡群 松山城跡(埼玉県吉見町)
【見た日:2021年(令和3年)10月21日(木)】 比企城館跡群、その4 ※ 公式HPより 松山城跡は、比企丘陵の先端に築かれた北武蔵地方屈指の平山城で、大正14年に県指定史跡となる。平成20年には、すでに国指定であった菅谷館跡(嵐山町)に、杉山城跡(嵐山町)、小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町)とともに加わり、比企城館跡群として国指定史跡となる。城の周囲は市野川が形成した低湿地帯が広がり天然の要害を形成している。「松山城」と呼ばれる城は、愛媛県(伊予松山城)・岡山県(備中松山城)に存在することから、他の松山城と区別して「武州松山城」「武蔵松山城」と呼ばれることもある。現状の城の縄張りは、小田原北条氏による大改修によって形成されたものと思われ、本曲輪を初め多くの平場や空掘などが大変良好な状態で残っている。 松山城の築城は、室町幕府の要職にあった公方足利氏、扇谷上杉氏、山内上杉氏による関東の動乱を背景に、扇谷上杉氏側の拠点の城として15世紀後半に築城されたと推定されている。歴史的には、公方足利氏、扇谷・山内両上杉氏が衰退し、戦国大名の代表とされる小田原北条氏が興隆する時期からその名を中世史に登場させる。 天文年間(1532~1555)以降の文献資料は豊富で、そこには、扇谷・山内両上杉氏、小田原北条氏、甲斐武田氏、越後上杉氏の名も見られる。特に、天文6年(1537年)に小田原の北条氏綱が江戸城・川越城を落とし松山城を攻めたことは有名である。その後も小田原北条・越後上杉などによる度重なる合戦によって支配者が頻繁に変わったが、小田原北条勢力下の上田氏の支配下にあることが多かった。松山城をめぐる攻防は大変激しく、ここが北武蔵地域の要所であったことが伺える。天正18年(1590)、豊臣秀吉による関東攻略の際、前田利家・上杉景勝などの軍勢が攻め落とし、小田原に本拠を構えた北条氏は滅亡した。その後、徳川家康が関東に入り松平家広を松山城主としたが、弟の松平忠頼のときに浜松に移封され慶長6年(1601)に廃城となった。 ※ 国定指史跡 比企城館跡群 松山城跡 〈国定指史跡 比企城館跡群 松山城跡:埼玉県吉見町北吉見298〉