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カテゴリ:食事(和食)
【食べた日:2023年(令和5年)2月26日(日)】
※ 公式HPより 慶長年間(1596年から1614年)といえば、徳川家康が江戸幕府を開く少し前から江戸時代の初期、バイオテクノロジーなど無い時代です。その頃の稲の品種改良は、田の中に入って、優良な稲を選び、その穂を抜き取り、その籾(もみ)から育成することを繰り返すというものでした。 このころ、四丁野村(現在の宮本町)の名主であった会田太郎兵衛が、もち米の改良に取り組んでいました。文献によれば、同氏が慶長元年に優良なもち米の選抜に成功し、周辺の農家に栽培が広がっていきました。このもち米は、作出した会田太郎兵衛の名を称して「太郎兵衛糯(もち)」と呼ばれるようになりました。これが後に天下に名を馳せ、400年たった今も愛され続けている太郎兵衛もちの始まりです。 「コシが強く、粘りがあり、独特の風味がある」太郎兵衛もちは、明治から昭和の初期にかけて隆盛を極め、天皇家への献上の光栄に浴し、宮内省のご用を勤めました。また、昭和の初期には東京の和菓子屋が争って出羽村を訪れ、太郎兵衛もちを買い求めたと言われます。 しかし、戦時中食管法が施行され、政府への売り渡し価格が他のもち米と同じ価格に統制されました。このため、品質を誇り、倒伏しやすく、面積当たりの収量が少ない太郎兵衛もちを栽培する農家はごくわずかになってしまいました。 味は良いが収穫量が少ないことから生産が激減していった太郎兵衛もちを、何とか後世に残そうと、平成5年に越谷市が品種保存に乗り出しました。農家に太郎兵衛もちの栽培委託をするとともに、太郎兵衛もちの作付けを推進するための事業を展開しています。 また、太郎兵衛もちの保存・復活のため、平成10年から、太郎兵衛もちを栽培する生産者により「越谷市太郎兵衛もち協議会」(現会員10名)が組織され、400年の歴史を今に伝えようとがんばっています。 平成29年度には太郎兵衛もちの作付面積は43反となっています。 また、平成23年度には、「こしがやブランド」の認定も受けました。 ※ 越谷特産 太郎兵衛もち お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年02月26日 20時02分04秒
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